第二章
三等兵は、浅い眠りから覚醒した。
最初、自分が目を覚ましたことが信じられなかった。
目を開けている感覚はある。でも何一つ見えない。視界の全てを一様な黒が広がっていた。
視覚が頼れないことで他の感覚がどんどん鋭敏になるが、耳に入るのは、いつもの世の中はなんて賑やかだったのか、と感じるほどの静寂のみ。鼻孔が感じるのは、まるで病院のように不自然な無臭のみ。
こんなに「何もない」状態が、世の中にあり得るとはとても思えず、三等兵は焦燥した。
「なんでボクはこんなところに……どうしてこんなに暗いんだろう」
独り言を呟いたのは、不気味すぎる静寂をなんとかしたかったからで、問いかけではなかった。
暗闇が返事をするなんて、思ってもみなかった。
「俺が連れてきたんだよ、三等兵。ここ、テキスト学園地下教室にね」
心臓が止まった。何かがいる。三等兵は慌てて立ち上がった。
「だ、誰!? そこにいるのは!」
叫んだのは失敗だった、と自己嫌悪した。反響が何度も何度も三等兵自身の不安を急きたてる。声から逃れようと後ずさったところで机に阻まれた。迂回。迂回をしないと。でも自分がまっすぐに立っているかどうかもわからない闇の中で、これ以上動く、ということだけで充分に恐怖だった。
と、前方に(どちらが前かなんてわからなかったけれど)何かが見えた。
「誰、と聞いたね。俺が何者かを、聞いたわけだね。……支配者だよ。『ここ』の、ね」
一切の光がさしこまない闇の世界にあって「それ」が見えたのは、「それ」が、闇よりもさらに暗い黒だからだ。
手は届かない。けれども、逃げられない。「それ」はそんな距離だけ離れたところにいた。
「三等兵くんも、俺の名前くらいは聞いたことがあるんじゃないかな?」
「……まさか……み、『みずは』……」
影は、含み笑いで肯定した。
テキスト学園付属病院は騒然としていた。
ここは理事長の趣味だけのための建造物であり、普通の怪我や病気は保健室で対処されるため、いつもは閑散としている。しかし保健室レベルでない患者がいる今や、看護士が走り点滴パックが飛び交う、戦場のような様相であった。
「春九堂さんが襲われたって!?」
そこに駆け込んで来たヤマグチを、覇者りん理事長が迎えた。
「うむ──ほら、この通りだ」
「……!」
覇者りん理事長が一歩横に退いた、その向こうを見てヤマグチは言葉を失った。
春九堂さん。表面的な厳しさの奥に、無限としか思えない優しさを秘めていたその顔は、見る影もなく憔悴しきっている。身体は今も思い出したかのように小さく痙攣を繰り返し、その内面のダメージが相当なものだということがわかった。
塗られたオイルは全て拭われていたが、濃密な香りまでは消え去ってくれず、この場を場違いに甘く染め上げていた。
「心配はしなくてもいい。我輩の見たところ、命に別状はない」
ヤマグチは覇者りんに掴みかかった。
「春九堂さんを、こ、こんな……だ、誰の仕業なんですか!」
「わかっているだろう? この警備部長を、こんなにも責めぬく──こんなことができるのは」
そこで覇者りん理事長は言葉を切ったが、それに続く言葉を知らない人間など、このテキスト学園にはいない。
ある意味、象徴ですらあった、伝説の男──兄貴。
「しかし、兄貴先生の仕業とは限らないでしょう……兄貴先生は、もういないんだ。そうでしょう理事長」
「いいや。これを見ろ。これが、真実だ」
覇者りん理事長の視線を追ったヤマグチは、息をのんだ。
そこ、春九堂の太股には、爪で刻んだと思しき傷跡から流れた血が固まり、どす黒いサインを形作っていた。
『(−_−)』
みずはは踊るように、三等兵のまわりを巡る。
正面から左へ、そして、後ろ、右……ゆっくりと。値踏みをするように。
それが始まってから一分経ったのか、一時間経ったのかすら、三等兵にはわからない。暗闇と緊張に全ての感覚を狂わされている。息が苦しい。
「憎くないのか?」
突然の言葉に、肩が跳ね上がった。
その時、みずはは正面にいて、三等兵の瞳の奥の奥をのぞき込んでいた。粘性を帯びた視線に鎖のように束縛されつつ、三等兵はありったけの勇気を振り絞り、蚊の鳴くような声を上げる。
「な、何が……ですか?」
「君は、かつて兄貴先生の企みにいいように利用された」
いつの間にこんなに近付いていたのだろう。のばされた異様に長く白い指に、頬をまさぐられた。強い嫌悪感を感じる。でも、どうしても逃げることができない。払いのけることができない。耳を塞ぎたいのに、それすらもできない。
全身が声に、心が指に、操られているのがわかる。
ふと、その指が離れ、緊張の反動で全身が弛緩した、その、瞬間。
みずはは、一瞬にして吐息がかかりそうなほどの距離に近付き、
「屈辱の蹂躙をされた!」
決してその声は大きくなかったのに。
三等兵は、脳髄まで痺れた。
みずはは再び、自分の周りをゆっくり歩き始める。この教室全体が彼になった気がする。すでに自分が彼の手中にあることを、恐ろしいほどに自覚する。
「そして三等兵、君は純然たる被害者であるにもかかわらず、不純同性交遊をしたとして兄弟校のモガディシュ分校送りを言い渡された」
これ以上聞いちゃいけない。そう思う。
思わず顔を背けるが、そんな三等兵を嘲笑うかのようにみずはは三等兵の視界に入るように移動してくる。
「それは不問とされたはずなのに、書類上の不手際で! 何故か! 実際に留学させられてしまった!」
彼が何をしようとしているのか、わかった。三等兵の奥の奥に眠る、小さな炎。怒りという名の燻りを、焚きつけているのだ。
燃料を注がれた炎は、みるみるうちに三等兵は灼いていく。
意外と。
炎の中は、心地よかった。
みずはの双眸に湛えられた狂気の光が、三等兵の瞳に、鏡のように映った。
「ことの始まりは、これだな?」
と言うと同時にみずはは、どこに隠していたのか、一枚の上着を取り出した。すっかり闇に慣れた三等兵の目には、それが何かはっきりと見えた。
「ワタナベさんの、制服ですね」
もう三等兵の声に萎縮の影はなかった。
「そう、全ての始まりだ。 ──さて、ここで問題だ。三等兵、お前が尊敬していたワタナベは、お前に何をした?」
兄貴先生に辱められたあと、ワタナベ先輩、ヤマグチ先輩と一緒に、あの体育教官室に呼ばれたとき。ワタナベ先輩は、ボクの方を冷ややかに見据え、言った。
ホカノ ダレニ アナタガ ナニヲ シヨウガ シッタ コトジャ ナイ
普段なら虫も殺せない、優しすぎる少年。
そんな彼の双眸に復讐の炎が灯り、ワタナベの服を着たみずはを殺気すら孕んだ視線で射抜く。
「憎い……………………はい、ボクはワタナベさんが憎い」
「そうだ憎め。憎んで憎んで憎みぬけ。自分も他人も物体も世界すらも憎め。──そうやって、俺を楽しませろ。もっと。もっとだ!」
満足そうにみずはは、三等兵の前で、ワタナベの服を自ら羽織った。
「俺を、ワタナベだと思え」
空気が再び張りつめた。三等兵の鼓動と、荒い息づかいの音が、地下教室に響く。
「犯してみろ」
「──はい」
野獣のように自分にのしかかってくる三等兵を、みずはは薄笑いを浮かべて見ていた。
深夜。
人気の失せたテキスト学園付属病院の、とある病室。
そこには、身体中にあらゆるカテーテルを纏った春九堂がいた。峠を越して集中治療室からは抜けたとはいえ、全身の汗は止まることを知らず、シーツをぐっしょりと濡らしている。
そして、バイタルセンサのほのかな明かりが、その傍らに立つ男を照らしていた。
「……家元……」
どこか寂しげな、複雑な表情で呟いたのは。
兄貴。
苦しむ春九堂の姿を眺めるその顔は、今まで誰の前でも見せたことがない表情をしていた。
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