女は黙って…?
本書は、グリム童話を主に性差別の視点から分析した研究書である。以前に「赤ずきん」の話をここで考えたことがあるが、そのような比較文学的手法だけでなく、歴史学的・言語学的にグリムの童話全体の男尊女卑的編集方針を明らかにしている。
それに対して、グリムの編集方針は、一般にどう受け入れられているのか。ちなみに講談社のミニ百科事典である「大辞典」でグリムの項を引くと、
「(兄のヤーコプは)神話、伝説、民話の収集に、弟(のウィルヘルム)は収集された説話の文章化に力を注ぐ。その際、原話に芸術的表現は与えても、採集者の解釈を入れない点に特色がある」となっている。この兄弟学者は古文書の扱いになれており、口承で伝えられた話や文献資料のなかから、ジグソーパズルのように、類話を巧みにつなぎ合わせ、いくつもの説話を再構成した(従って、似かよった話もいくつかある)。いずれも興味深い内容で、芸術といっていい。だがそれが、兄弟の「作品」としてよりは、あたかも伝承そのものを「発掘しただけ」という受けとられ方をした点に問題があった。事実、ドイツ国民の精神やゲルマン魂を表すものとして、ナチスなどにおおいに利用された。
本書のグリム批判の中心は、「灰かぶり」にある。この話は、「シンデレラ」として一般に有名だ。ディズニーのそれは、アメリカの砂糖菓子のように、甘ったるい受動的な女性の生き方を推奨しているだけだ。が、グリムでは従順でない娘達は、足を削られ目をえぐりだされるという、凄惨な懲罰を受けている。一方、男の場合はどんなにへまをしても、逆に褒美がもらえたりして、むごい処罰はされない。また、判決を受けなければ処刑されない。にもかかわらず、グリム童話は欧米をはじめ世界の子どもの読み物として、あるいは人間の心理を分析する研究者の「原典」として受け入れられ、大きな影響力をもってきた。それはどうしてなのだろうか。人間を惹きつけるものは何なのだろう。
第一に、グリムの童話の洗練された文章だ。具体的にいえば、ヒロインの発話が直接話法ではなく、間接話法でなされていることだ。呪文を除いた直接話法の数で示すと、シンデレラ1、まま母7、王子8となる。これは1857年の決定版だが、1812年の初版(各9、4、4)以来何度もウィルヘルムが手を加え続け、最終的にこの数字に落ち着いたのだ。直接話法は、その人の意志を表すものとしてあるのだから、この様な変更はとうてい無視できない。ヒロインの主体性の無さをきわだたせ、王子のヒロインに対する権利要求を明確にし、まま母の油断のならなさを強調する構造となっている。差別待遇が合理化され、芸術性さえ帯びてくる。
第二に、この編集方針のもつ時代背景の「普遍性」がある。兄弟が説話を集め始めた1807年のドイツは、フランス軍の占領下にあり、国粋主義的・復古主義的機運が高まっていたという時代だ。フランス革命の進歩的側面とナポレオン軍の侵略性とは分かちがたく、現在の「複雑さ」に比べれば、過去はどうしても「単純」に思える。フランスの影響でドイツの良き伝統が失われつつある。特に、女性の男性に対する従順さである。昔は良かった、口答えする女なんていなかった。だいたい、自己主張するなんて、美しくない、かわいくない、というわけだ。
考えてみれば、必ずしも占領下でなくとも、そのような「気運」はいつでもどこにでもある。アメリカの家族主義の復興、ドイツ統一後の経済的困難、日本のバブル崩壊から今日の世界的不況。そのような時にこそ、あからさまなネオナチ的言説ではない、ソフトな芸術的表現は心のひだに食いこんでくる。それをどう見分けていくのか、本書はその手がかりを与えてくれている。