千田好夫の書評勝手

どっちつかずはどっちだ

近頃、「障害学」という学問ができていることを知った。いくつかの論文や訳書(立岩、長瀬)は既に読んでいたけれど、「学問の一分野」となっているとは驚いた。

おもえば、それはいつか来る道であった。確かに、一面では喜ばしいことだが、うかうかしてはおれない。これまでは、医学や心理学あるいはこの前紹介した認知論からの「障害」へのアプローチがあった。簡単に言ってしまえば、これらはどんなに私に不愉快であろうと、たとえば私なら私の外面に触れるだけだ。ここでの障害者は、篭に入れられた実験用の猫に等しい。だから、そこでの成果が当を得ていようがいまいが、「こいつらがこんな(けしからん)ことを言ってる」と大雑把にとらえていればそれでよかった。

だが、「ろう文化宣言」のあたりから、雲行きが怪しく(?)なってきた。この本の中には、社会的マイノリティとしての障害者が、健常者を主体とするこの社会の文化とは異なる文化の担い手として主張することを、擁護し推進したり(長瀬)、あるいは、「青い芝」の主張していた「内なる優生思想」を論理的におしすすめればこうなる、こうする道もあったのではないかと論じる(立岩)立場があり、両者には微妙な対立がある。しかし、いずれにしても、もはや「こいつらがこんなことを」ではすまされなくなっている。まず、同意すべきことがとても多い。これまでの学問とは際立って違うのは、「障害」あるいは「障害者」像がきわめて正確なように私には思われることだ。

思われるだけに、心のひだに食い込む彼らの研究には、当該の一人としては穏やかではいられない。たとえば『「身体障害という事態を普遍的なものとしてみることができると同時に、その特殊性をも見落とさずにすむ」枠組みとして「障害を境界領域の一形態として扱う方法」』(マーフィー、新原)が述べられている。これに対して、マーフィー自身が進行性の障害者であるにもかかわらず、私は違和感を感じる。「境界領域」とは「どっちつかず」ということであり、それがアメリカ文化における身障の位置づけを適切に表す、という。マーフィーの原書「ボディ・サイレント」を知らないので断言できないが、紹介のされ方からすると、障害や病気のアメリカ社会における有りようを人類学的に分析し、異文化研究の手法を障害に応用しているのだ。またしても「異文化」である。

これによって「差別される障害者像」が学問的にある程度確定され、学者と出版社には仕事が増えるかもしれない。しかし、差異の確認としては有益なことが多くても、それをはるかに越えて「異文化」を確定してしまう恐れがある。つまり、障害者を分析してその結果がいくら正しくとも、結果的に、差別を生みだしている社会の文化を温存してしまうのではないか。「どっちつかず」に障害者をおいているのは社会の方であって、障害者自身ではないからだ。