千田好夫の書評勝手

子どもを見なおす(2)

シルヴァスタインの『与える』という絵本は、一本のリンゴの木と少年だけが登場人物であり、両者の関係のあり方がテーマである。野原に一本のリンゴの木があった。少年は子どもの頃から木と遊んだ。青年になり金が必要になると、木はリンゴの実を与え、少年はそれを市場で売る。青年になり家族ができた少年は家を建てる材木が必要になり、木は枝を与える。少年の事業に船が必要になると、木は幹を与え、切り株だけになる。老人になって戻ってきた少年が「疲れた」と言うと、木は切り株の上に休むように言う。少年が腰をかけると、木は幸せだった、と結ばれる。

なにかを象徴しているような話だが、子ども達は年齢や国籍によっていろいろな反応を示している。本書は、それを様々な角度から統計的に処理し、解釈を試みている。詳細は本書をみてほしいが、ここで考えたいのは、「一方的な関係」についての解釈である。子ども達は、ねだるだけの少年に非難の気持ちでいっぱいになる。これは国別を問わない。しかし、与えるだけの木に対しては、外国では神や自然を想定して肯定するのに対し、日本では「木は本当はいやだったが、少年がこなくなるのを恐れて」と、本音の解釈をする子どもが多い。特に女の子にこの傾向が強い。

ここで、少年を介護を要する障害者におきかえてみよう。障害者は、一般的に言えば与えられつづける存在である。人権に基づく障害者の社会的要求は、一方的な「おねだり」ととられやすい。「福祉に甘えるな」というわけだ。もし、子どもが、障害者と適切な関係を持つ機会と教育がなければ、非難の気持ちを払拭できないことを示している。私が小学校時代に徹底的にいじめ抜かれたのも、この観点から納得できる。

次に、木を介護する人(ボランティア)におきかえてみると、神ならぬ介護人には「与える理由」が必要だ。日本的に言えば何かウラがある、ということになる。いずれにせよ、障害者と係わるのは一方的に与えることだから、理由が必要というわけだ。ボランティアにはいる人には、まわりの人や障害者本人から、「何のためにするのか」と問われつづけた経験を持つ人が多い。特別な理由がなければ障害者と関われないのであれば、関われる人はいなくなる。

果たして、木は少年から何も得ていないのだろうか。苦役でしかない関係(たとえば奴隷制度)を維持するには、それなりのゲバルト装置(警察権力や教師の評価権など)が必要だ。だが、木と少年の関係には、そのようなものがない。ゲバルト装置がないところでは、本音と建て前を分離する必要もない。一方的に見える少年と木の関係は、善悪の判断ぬきに「お互いに必要だったのだ」と相対化され、円熟化されなければならない。

それでは、木は少年との関係に何を、求めていたのだろうか、と考える余裕は、今のところ子ども達に残されていないことを、本書は示している。本書はその原因を、本音をさぐる日本的文化に帰せしめている。まことに、子どもはありのままで素直だとしても、大人への道筋を指し示すのは私たち大人の責任なのだ。