障害者は二級市民か
自民党・公明党が出している教育基本法「改正」案には、障害による差別禁止規定がない。
第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 (略)
確かに第1項に「教育の機会均等」において差別してはならないことに「障害」は入っていない。その代わり(かどうかは知らないが)第2項で「教育上必要な支援を講じなければならない」となっている。差別禁止条項に組み込まず、わざわざ別項目で「支援」を言うのはなぜだろうか。それは場合によっては差別してもかまわないということにもなるかもしれないが、より深刻なのは、障害者は「支援」を受けるべき存在だという断定だ。古川清治さんは、与党案は障害者は「二級市民」であるという論を打ち出しているのだと指摘している。(「『障害のある者』は二級市民ではない!」古川清治 千書房ブックレット(1))
現行の教育基本法では次のようになっている。
第三条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
これにも「差別禁止」の中に「障害」が含まれていない。だから、この点ではどちらも障害者を場合によっては差別しても良いとしているのかもしれない。しかし、与党「改正」案のほうがより差別性がはっきりしていると言える。現行教育基本法は、「その能力に応ずる教育」ということで、迂回的に障害児の分離を認めるものと「解釈」することができたが、与党案では「教育上必要な支援を講じなければ」と、直接に分離を肯定する道を開いたのである。
当然、この規定のままではインクルージョンは実施できない。インクルージョンは場の統一の中で様々な工夫を要するものであり、なんならこれを「支援」と言ってもいいのだが、それにはそれが押しつけや差別に転化しないように差別禁止条項が必要になる。
それは、日本のようにインクルーシブ的寛容さのないところでは、「書いてないけれど、差別禁止に当然含まれるはず」ではだめだからだ。現行憲法にも
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
と、「法の下の平等」における差別禁止の中に「障害」が入っていない。
これを盾にとって、かつて、金井康治さんの転校要求裁判で足立区立花東小学校校長は、「憲法に障害によって差別してはいけないとは書いてない」と居直ったのだった。転校拒否は差別であると自ら認めて「憲法」をそのように利用するのには、裁判官も検察官もさすがに一瞬しらけた空気が感じられた。
ところが驚いたことに、去年10月発表の自民党憲法「改正」案には障害による差別の禁止条項が入ったのである。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
もちろん、これは「戦争のできる普通の国」になるために、相当の決意で自民党が出してきた「改正」案なので、「目くらまし」として使われているのに過ぎない。その証拠に
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。
と、あるので、第十四条はなんぼのものでもないのは確かだ。
しかし、次のような批判には面食らわざるを得ない。「そもそも「障害」という言葉の妥当性、それを憲法に持ち込むことの安易さが問題とされるべきだ」(「これが『新憲法』なのか」水島朝穂…「労働法律旬報」2005年11月下旬号所収))
「障害」という言葉が妥当かどうかといえば、もちろん問題はたくさんある。自民党の狙いも明白だ。しかし、だからといって憲法に持ち込むのは「安易」として退けられるものだろうか。水島さんはこれ以上のことを言っていないので何とも言えないが、あの一瞬のしらけた空気をまた感じてしまったのだ。