ヘゲモニー争いの過程としての国家
3月号で「インクルージョンも支配の道具」という言葉にこだわって考えました。それは、そのような側面を認めつつ、では、どうすればいいのかという問い返しでした。「権力を私たちが握っていないという意味では、なんでもそうには違いない」と、とりあえず考えましたが、それで止まってしまっては、全か無かになってしまいます。
そこで、本書を手がかりに考えたいと思います。本書は、題名から分かるように、現代市民社会論というべき内容です。国家・経済・市民社会というトライアングルをいかにとらえるかがテーマです。筆者はまず、「国家と経済の活動領域を限定し、これらに対する市民社会の自律性の確保と影響力の拡大」というハーバーマスの戦略を検討しています。
ハーバーマスにとって、市民社会とは国家と経済が社会から抽出されたあとの全てです。そこは、われわれの生活する場であり、われわれの日常感覚と非常に密接です。そこでの感覚から国家と経済を批判するのですから、市民社会とは一つの「規範」でもあります。この考え方は、全てを政治や経済に還元していた従来のマルクス主義的考え方を批判するもので、市民社会での市民運動は、国家権力の奪取ではなく、国家権力を批判しこれに影響を与え変化させることに目的を限定するという「自己限定的ラディカリズム」につながります。
これは一つの理念型ですから、実態とは違いますが、それにしても森羅万象混沌としている市民社会を「規範」にまでしてしまうのはどんなものでしょうか。障害者差別を例にとれば、差別的事象のほとんどが市民社会の中で起きています。それを規範になどできるわけはなく、市民社会は「否定的な経験性」が規範性と相克する場であると言えます。急いで言い換えれば、この相克をめぐって様々な潮流の市民運動・社会運動がヘゲモニーを競い合う舞台なのです。もちろん、日常感覚からすれば、われわれは常に何かの運動にかかわっているわけではなく、このとらえ方も一つの理念型ではあります。(続いて、筆者は階級概念についてふれていますが、ここでは割愛します)
そこで市民社会における諸運動は、相互に差異と多様性を維持しながら、ヘゲモニーを争いコミュニケートしていることになります。ネグリとハートを引用しながら筆者は、性差、地域共同体、文化、宗教、民族、障害などの差異と多様性が「共通の目的」に向かって序列化・相対化されるのではなく、等価性原理に基づいてネットワークを構築するという多元的な等価性原理を主張しています。
国家権力は、これら社会運動のヘゲモニー争いと権力相互のヘゲモニー争いに応じて組織され、またこれらのヘゲモニー争いに介入するという循環の過程としてとらえられます。しかし、全ての利害が国家において調整され「共同利害」「共同幻想」として最終的に裁可、決定されざるを得ないという点において、国家は市民社会とは区別されます。従って、市民運動の側からはこのヘゲモニーの実践に注目し関与すべきことになります。(本書の後半は、グローバリゼーションと国民国家について述べられていますが、それは別の機会に譲ります)
この観点から、「インクルージョンも支配の道具」を考えれば、ヘゲモニー循環の片方のみを強調していると言えるでしょう。アメリカという国を外から見れば、「帝国」という見かけばかりが目につくのは事実です。しかし、そのアメリカで統合教育ないしインクルーシブ教育が、25年以上続いていることの社会的意味を考察しなければならないでしょう。それについては私も「旅行者」としての印象しか言えないのですが、5月号で述べたようにインクルーシブ的寛容さの薄い日本社会でこそ、「インクルージョンも支配の道具」という警戒心は必要でしょう。その意味でも、現下の学校教育法・教育基本法「改正」にいかに立ち向かうのかが問われているのです。