インクルージョンも支配の道具?
ある年代以上の多くの日本人にとってはアメリカというのは複雑な国である。「鬼畜米英」か「アメリカ帝国主義」のどちらかであったにもかかわらず、物質文明と民主主義とマイホーム主義の元祖として、絶大な影響力を持っている。そして、今はインクルージョンだ。何度目の黒船だろう。しかし、今度の黒船にも日本の文部科学省は「うち払い」にやっきだ。国連では「障害者権利条約案」教育条項の例外条項にこだわっているようだ。また、今月出される学校教育法改訂案では、養護・盲・聾学校を「特別支援学校」に一本化するだけでなく、小中学校に在籍する障害を持った子どもの教育に「助言又は援助を行う」といった特殊教育の領土拡張を行い、「特別支援教育の教員免許」を出すというのが骨子だ。この時期にこのような「改正」を行うということは分離教育を死守するという態度表明以外の何ものでもない。
しかも、今度の改訂は、実は単なる名称の改訂ではない。特殊教育の領土拡張は、「LD、ADHD、高機能自閉症」といったなじみのない新しい障害児を対象としている。これが何であるのかは、本書を読んでいただければおおよそ見当はつく。
この障害は脳の微細な障害によるといわれているが、微細な障害ならすべての人が持っているであろうし、要は、「対人関係に問題がある」とされる行動を「障害」として一括りにして親も教師も国も「安心」しようとしているだけなのだ。何が問題行動なのかは、時代や社会によって違ってくる。騒がしい子どもは、日本やドイツでは問題児、障害児であるかもしれないが、そういう子が万事陽気なマルタ共和国に来てみると「上品でしつけのよい子」という評判だったという石川さんのお話は、笑ってしまうとともに考えさせられてしまう。
そういえば、どんな人が障害者であるのかは国によって違う。オランダは人口比20%の人が障害者とされ、アメリカでは14%、日本では5%(05年度障害者白書、政府刊行物)である。国によってそんなに違うはずはないから、その国の障害者政策によって「障害者」の数が違ってくるのというのが一目瞭然だ。差別の強い日本では、本人も家族も不名誉で国も福祉政策に金をかけたくないから障害者の割合を減らし、ADA(アメリカの障害者差別禁止法)によって障害者の権利主張が認められているアメリカでは、障害者の割合が増える傾向にあり、労働政策と障害者政策が密接なオランダでは、さらにその上を行っているということになる。
ここからLD等の新しい障害のレッテルを見てみると、アメリカではインクルージョンの中で通常の学校の中で受け入れることが前提なのだから、新しいレッテルは子どもの権利を保障する方向で使われ、日本では子どもをさらに分ける方向でということが、きわめておおざっぱに言えると思う。(もっとも、アメリカではこの子どもたちに対してきわめて多量のリタリンが使われており、新しい障害者は製薬会社のためだと言う人もアメリカにはいる)
私は、旅行者としてアメリカでは大変自然に自由にいることを感じることができた。日本では、国内旅行でも車いすの移動には大変な気をつかい、珍しげに見る人々の目も意識せざるを得ない。これを既に25年以上過ぎたアメリカのインクルージョンの成果というのは、買いかぶりだろうか。本書の論者たちのアメリカおよびインクルージョンへの大変低い評価(あるいは敵視)は、おおいに解せないところだ。
アメリカ帝国主義のインクルージョンも支配の道具(鳥羽さん)だ。権力を私たちが握っていないという意味では、なんでもそうには違いない。しかし、いまこの日本の教育現場を少しでも障害者に居心地のいい所に変えていきたいと思うのは間違いだろうか。「いずれに行くのもどうせ地獄」(石川さん)というのは決意のレベルではいいけれども、6年間小学校でいじめ抜かれた私、それでもやっぱり学校に行きたかった私、そして現在の障害のある子どもの同じ気持ちを考えるにつけ、子どもの立場としては「今この普通学校で幸せに生きたい」というのをなんとかしたいと切に願わずにはいられない。
「どうぞ気が済むまでおやりになった上で、また考えましょう」(北村さん)といわれてしまうと、途方に暮れてしまう。それは、私の甘えなのだろうか。