千田好夫の書評勝手

セカイから身近な地域まで

車で移動しているときにはあまり意識していなかった地理的制約が、車いすで動いてみるとじかに身体にのしかかってくるように感じることがある。最近、東京から横浜に引っ越して、わずか10キロぐらいしか離れていないにも関わらず、地域によって人々のまなざしが違うし、物理的バリアのあり方も違うのを感じる。

当たり前といえば当たり前だが、地図上の行政境界や鉄道の路線などはただの線ではない。人々の生活感覚を微妙に仕切っているし、当然風景も違う。これらを説明してくれるのは、もちろん経済や歴史の知識だろう。しかし、現時点でのその土地柄と人々のあり方を総合的に考えさせてくれるのは地理だろう。でも、地理なんで高校一年でやったっきり。とんとごぶさたなので図書館で入門書を探してみた。その中で「電源開発と山村の変容」という小見だしにひかれて本書を借り出した。世の中をダイナミックにとらえようとしていると感じたからだ。

一読して驚いたのは、地理という学問が高校でやってたようなデーターマップの集大成ではないということだった。私がそのように思いこんでいたのは、地理といえども入試対応の授業で、いきおい点のとりやすい各種のデーターを詰め込むということに傾斜していたからに違いない。

それでは、本書の場合何が地理学なのか、あるいは何が地理学の目的なのかといえば、ずばり現代の都市化とは何かを考えることなのだ。少なくともそれが本書のテーマなのだということがわかった。

日本とボツワナと中国の街の景観の写真を並べ、「都市といえるのはどれ?」と問いかける。これは普段ぼんやりと思っている「都市」がいかにあやふやかを指摘するためではなく、本書でいう都市の「定義」を明らかにするためだ。財やサービス提供の中心地であり食料等を外部から購入していることが地理学上の定義であるという。ここからすると、単なる人の雑踏やベットタウンなどは「都市」とは言えなさそうである。

もちろん、定義というのは現象を計る一つのものさしに過ぎず、なにか絶対的なものではない。でも、視点を定めることによって現象を動的に計ることができるようになる。先に述べた「電源開発と山村の変容」では、白川郷を例にダムが建設された金の流れで村の地域システムが崩壊し、観光地化することによって再生する過程がのべられている。電力と観光を都市へ提供するために山村が変容し、世界遺産の合掌造りはその中でかろうじて維持されているのだ。

都市においても、高齢単身者、日雇い、失業者、ホームレスの分布、外国人労働者とブルーカラーの分布、これらと物流・産業立地のあり方や江戸時代の絵図などとの関連を明らかにすることによって、地域の特性、とりわけ住み分け、排除といった地域の問題を説明しようとする。なおかつ、説明にとどまらずそれらの現象とどう研究者が向きあうのかまで本書は見すえている。

そうであるのならば、障害者が地域で生活しようとするのも、きわめて都市的な現象であるはずだ。支援費が出ようと自立支援給付が出ようと、ある程度の財やサービスが提供される地域でなければ、自宅か施設に軟禁されるしかないからだ。

もちろん、本書に障害者が登場しないからといって、いささかも本書の価値が下がるわけではない。ただ、イギリスやオーストラシアなどでは商店街復活と障害者・高齢者の地域生活を結びつける運動が「ショップモビリティ」として結合し進展しているのに、アメリカでは個人の権利として、日本では障害者の個人的費用負担の問題として切りつめられつつある、そういった対比がなぜ生じるのかを、本書の視点から、解明し実践していけないものか。

自立支援法に対する批判や不満は当然だが、それではどんな生き方、どんな法律が望ましいのか、私も含めてビジョンを描ききれていないのが、最大の問題ではないかと思うからだ。