千田好夫の書評勝手

レンブラントの光と闇

レンブラントと聞けば、誰しも美術の教科書で見た「夜警」を思い起こすだろう。火縄銃手組合の面々が一人一人肖像として描かれている。隊長らしき人が一番大きく正面を向いて、他の人は群像のように見える。光が頭上からさしこみ、まるでスポットライトのようにあたり、あたかも劇場の一場面のようである。今見てもなかなかインパクトのある絵である。

ただ、隊長は満足したかもしれないが、群像扱いされた他の隊員達は大いに不満だったらしい。今日で言えば、集団の「記念写真」を頼んだのに、できてきたのは「芸術作品」だったというわけだ。顧客に不満を与えたという悪評が広まると同時にその一方では芸術的評価はあがった。

悪評の方が先行したらしく、それまで注文が殺到し羽振りの良かったレンブラントもだんだん落ち目になり、ついに破産し、身内にも先立たれ、1669年に63歳で寂しく死んだようだ。ただし、芸術家としての名声は落ちることはなく1667年にはフィレンツェ大公がアトリエを訪問しているほどだ。

以上が、レンブラントの評伝としてよく知られているところだ。本書は、レンブラントの破産が伝えられているような事情ではなかったことを明らかにしている。

レンブラントといえば、おびただしい作品群で知られている。多いのは肖像画なのだが、歴史画や宗教画も手がけ、その数は1000を越えるとされていた。近年、研究が進み、レンブラントの「真筆」とされるものは半分ぐらいになった。死後350年もたつのにそれほどに絵が残ったのは、すぐれた芸術家であったばかりではなかった。弟子たちがレンブラントの指示でコピー、あるいはレンブラント風の絵を「量産」したからなのだ。その量産組織が「レンブラント工房」と呼ばれる。

16世紀から17世紀にかけて、オランダはスペインからの独立戦争にあけくれていた。その一方で海外に進出し、スペインを追撃し、イギリスと覇を争っていた。つまりオランダは景気が良かった。オランダの人々は競って絵を購入した。一般の家庭にもオランダ総督の肖像画をはじめ美しい絵が飾られた。パン屋や魚屋などにも絵が飾られ、客の求めに応じて売られた。縁日などにも絵が廉価で販売され、絵画が大衆化されていたのだ。つまり、絵画市場ともいうべきマーッケットができあがりつつあった。それに応じて画家たちは工房で絵の量産体制をつくったというわけで、レンブラントだけが特異だったのではない。

本書によればレンブラントの新しさは、いち早く絵画の市場経済化に参入しただけではなかった。他の工房の多くがコピーづくりに励んだのとは違って、弟子たちにはレンブラント風の描き方を指示したものの、彼らの創意工夫を妨げず、また自身も弟子にコピーさせた後自分の絵になにがしかを書き加えることによって、細部の違う作品を大量生産した。これによって、商品としての絵を差別化し、市場での競争を有利にした。もちろん「真筆」には高値がついたので、このやり方で「レンブラントは名声と富を二つながら手にすることができた」と著者は指摘している。自身も企業家になりきらずに制作意欲を保ち、弟子にもフリンクやボルといった今日にも作品を残す芸術家が出たことは見逃せない。なかなかの人物であったことがわかる。しかし、それまで王侯貴族や教会の飾り物だった絵画が大衆化したのは、いささか時代を先取りしたいたといえる。いわば、世界に覇を競った当時の一種のバブルであった。イギリスとの競走にオランダが敗れることによって、バブルが崩壊し、500万枚ともいわれる異常な絵画の流通は次第にしぼんだのである。これによって、レンブラント工房もレンブラント自身も凋落していったのだと著者は推定している。

これは今日の日本の状況と重ね合わせた解釈かもしれない。だが、新しい見方の導入で新しい発見がなされるものだ。なお、著者はレンブラント自身についてこう述べている。

「光によってではなく、闇によって存在を表現する芸術家」。

ついスポットライトに気をとられがちだが、闇がなければ光もないわけで、レンブラントの絵の新しい見方を示している。