千田好夫の書評勝手

教育基本法「改正」批判を通して原則共学(インクルーシブ教育)を考える・その3

教師、保護者そして障害のある本人の努力があれば、制度なんていじる必要はないという考え方があります。しかし制度的保障がなければ、一番力のない障害のある本人にとってみれば、社会全体とくに教師や保護者の気ままにされる危険性があります。いい人にめぐりあう運に依存しなければならないからです。

これに対して、「いい人は、君がそういう関係をつくらなければできない」と言われることがありますが、根性があれば解決するものだけなら最初から問題はないわけです。

かりに上の教室にいくのに階段しかないとすると、通りがかりの同級生や先生に頼んでおぶってもらうか、かついでもらうことになります。しかし、エレベーターがあれば選択の幅が広がります。

ところが、「エレベーターに乗ると、友だちになる機会が少なくなる」あるいは「障害にかかわる問題があいまいになる」と心配されます。

でも、かつがれて階段をのぼれば友だちになりやすいというのは、恋愛占いと同じで何の根拠もありません。また、エレベーターに乗ったからといって私が障害者でなくなるわけでもありません。

私は、ずっと普通学級でやってきました。その中で小学校時代は私にとって暗黒の時代でした。孤立無援の私は毎日意味もなく殴られ、「びっこ」と差別されていました。障害のある子を普通学級に放り込むだけの統合ではいけないのです。「大人がなにもしなくとも子ども同士なんとかなるさ」と、漠然と思うのは無責任です。「なんとかなる」場合もあるでしょうが、多くはなんともなりません。

その思いのひとつの表現として、ろうの人たちの「ろう文化宣言」があり、ろう学校擁護の主張があります。だが、単に「統合教育反対」では、現状の差別的分離教育を放置することになってしまいます。

原則は共学であることをまず法的に確保した上で、なんとかなるさと「なりゆき」にまかせるのではなく、バランスと民主的な環境に配慮しながら工夫とやり直しを重ねていくことが必要なのではないでしょうか。

原則共学(インクルージョン)での教室の風景のイメージは、次のようになります。

まず、大人(学校)側の工夫が必要です。その第一としては、教師が障害について否定的な言動をせず未来に開かれたものとして語ること、ユニバーサルデザインの設備や教材を充実すること、地域の子ども関係を切り離さないことなどです。クラス編成にあたっては、担任の選任とその担任への支援、教室の位置などをよく考えるべきでしょう。その上で、子ども集団の中でその子のいる場所を見つけられるようにするのです。たとえば、他の子と組ませて障害のある子にもクラスの中での役割を与えることが、いじめ解消のきっかけになるでしょう。そして、これらの工夫はいじめ解消に限らず、障害のある子とない子の良好な関係をつくり発展させることにも役立つはずです。(教師にはよほど勉強してもらわねばなりませんので、そのための時間の保障が必要です)

教える側にもある比率で障害のある教師がいて、教えられる側にもある比率で障害のある生徒が複数いるべきでしょう。そして、様々な工夫を可能にする民主的な環境が必要です。先生が上司に縛られ、生徒が先生に縛られるところでは創意工夫が育ちにくいからです。さらに、子ども本人が自分の意志をうまく伝えられない段階では、子どもにかかわるあらゆる決定の場面で、保護者が参加することが必要とされねばならないでしょう。

このバランスと民主主義の問題は、障害児の教育の中では今まであまり考えられてきませんでした。これが共学の成功の鍵であり、いっしょに新たなことを経験し、学ぶことの基盤になると考えます。(そしてその場は必ずしも学校という空間でなくともいいのです)

このようなイメージであれば、原則共学(インクルージョン)はそう遠くにあるものではないと思いませんか。そして、このイメージをある程度明らかにすることが単に将来への見通しとしてだけでなく、現下の現行教育基本法廃止・反動的な新教育基本法制定の動きに対して反撃を組むひとつのより所となるはずなのです。