教育基本法「改正」批判を通して原則共学(インクルーシブ教育)を考える
教育基本法が「改正」されようとしています。この改正の問題点を岡村さんは次のようにまとめています。
第一に、「改正」手続きがブルジョア法さえ無視して行われていること。法に従うという行政のあり方を無視している。
第二に、現在の教育の在り方(能力主義、差別・選別、自由の抑圧など)をつくってきのは現行教育基本法だが、今回の「改正」はこの教育基本法体制変革の可能性を奪うものである。
第三に、教育基本法は憲法と一体となって天皇の戦争責任を免責してきた。今回の「改正」はこの免責を最終的に完成させる。
第四に、現行教育基本法は教育勅語体制の払拭をめざし教育の目的を定めていたが、これは元々「法は個人の心のありようを規定しえない」という近代原則を「逸脱」するものであった。しかるに今回の「改正」はこの「逸脱」を前提にし、第1条の教育目的に新たな徳目として「国を愛する心」を加えようとしている。国家主義的価値を「徳目」として教育の指導原理とするものである。
第五に、現行教育基本法は、人権としての教育を保障する一面があったが、反面教育の公共性の名の下に本来私事としてあった教育を公教育として公的支配を貫徹してきた。これに加えて今回の「改正」は、私事性に対し競争原理、規制緩和、民営化などを進展させる一方、歴史・文化・伝統などを「尊重」するナショナリズムによる新たな国民統合でグローバル化に対応しようというものだ。これは、個人主義や国家主義を越えて多元的価値を認めあい国家や社会をあらゆる面で越境しようとする試みに対立するものである。
第六に、戦後教育の現実は国家行政による「不当な支配」の産物であり、今回の「改正」はこれを正当化するものである。
これらの論点を通して、岡村さんは、単に現行教育基本法を守れというのでは不十分であって、現行教育基本法を歴史的の相対化し批判的対象として初めて「改正」戦略に対峙できるとしています。
その通りだと思います。では、これらを把握してからどのように対峙すればいいのでしょうか。岡村さんのこの本をいくら読んでも、それを読みとることができません。いやその議論は慎重に回避されているというべきでしょう。
「公教育における自由の原理は、「公的保障」原理と共通の磁場において、支配的な機能作動させて「共生」論を限定づけてきたのである。そうした事実にそう認識と自覚が要求されてきた」
(263頁)
つまり岡村さんは、運動がややもすれば権利保障論や制度保障論に行きかけると危惧し、権利保障を拡大していくという発想は、公教育自身がそうであるように、一方では保障するけれども、同時に支配する、保障することを通して支配されることに無自覚だ警告しているのです。
けれども、今回のこのような教育基本法「改正」に対して、岡村さんのように論点をきちんととらえた上で、共に生きるという多元的価値を認め合う教育のイメージを示していかねばなりません。それが教育基本法「改正」に対する批判を豊かでしっかりしたものにするのではないでしょうか。それは、原則共学(インクルーシブ教育)以外にないと思います。障害者を始めとする様々なマイノリティが、自らもアイデンティティを失わない教育であることが最低の条件となるはずです。日の丸・君が代に象徴される単一の国家主義的価値を、教育の指導原理とさせない想像力(創造力)と取り組みが必要なのです。それは決して支配に取り込まれることではありません。
しかし、アメリカ等で行われているインクルーシブ教育はそのお手本になるのでしょうか。アメリカは今まさに唯一の帝国として覇をとなえようとしており、その国で行われている教育なのですから。(続く)