千田好夫の書評勝手

分離はいつまで続くのか【その1】

絵本のように立派な装丁の本が5冊で一揃いのセット。それが立派な箱に入っている。しかも箱も含めてオールカラー。図書館用特別堅牢製本図書ということで、値段は税込み12,000円。

『「障害」について考えよう』というタイトルのとおり、この本は障害について障害のない子どもが学習するように編集されている。5冊の内訳は次の通りだ。

  1. 「指はまほうの探知機」目に障害のある子どもたち
  2. 「目でしっかりきく」耳に障害のある子どもたち
  3. 「ひとりひとりの歩みで」からだに障害のある子どもたち
  4. 「ゆっくりおとなに」知的障害のある子どもたち
  5. 「みんな元気に!」病院から学校にかよう子どもたち

つまり、日本の特殊教育上の区分けにそって障害が区分けされていることがわかる。その中身はどんなものだろうか。

「ひとりひとりの歩みで」では、いきなり「おはようございます」と都立光明養護学校の朝の風景から始まり、一日の日課が紹介される。朝8時45分、都内7区から障害のある子がスクールバスで通ってくる。全員で歌を歌って朝の会が終わると、学年を越えたグループ分けで授業が始まる。日当たりのいい部屋で、先生が歌を歌いながら生徒の体をなでて、くすぐったくて笑い出す子もいる、という記述が続く。

これを本書は「あそびのように見える、こうしたことも、じつは、からだのさまざまなはたらきをたかめていくための、だいじな訓練のひとつ」と説明する。その一方で「みんな、障害はあってもふつうの子ですよ」といい、「はじめは、その人の障害が気になります。でも、いつのまにか、その人の障害を気にすることなく、なかよくなれます」とまでいう。

これを読んで、通常の授業時間中に、リハビリのような「訓練」が必要な子は「ふつう」なのだろうか? 病気の子ではないのだろうか、という疑問がおきてこないだろうか。解説者のいう「ふつう」とか「気にならない」という実感は、一緒に過ごして「いつのまにか」わいてくるものなのに、この本の読者である障害のない子たちのほとんどがそういう機会がないことには触れていないない。

他方、この長い25ページもの養護学校の説明の後で、4年生のキンジストロフィー症の子が電動車いすを使って地域の小学校に登校している様子が4ページだけ描かれる。しかし、その重みは25ページに匹敵している。この子はクラスの中にとけこみ、「障害児」としてではなく、たまたま障害がある友だちとして、自然にてをかすつきあいができている、と紹介される。この子は「どんなとき、こまったな、とかんじる?」ときかれて「わからない」と答えている。つまり現状で困っているとは感じていないのだ。

そうだとすると、養護学校のあの子たちは、どうしてスクールバスでわざわわざ養護学校へやってくるのか。どうしてこの子のように家の近くの学校へ行かないのか。それについては解説では何も言っていない。あるいは、読者が自らそういう疑問を持つように編集者は苦労しているのかもしれない。

何も言わないけれども、解説者は、欧米では街の中でよく障害者を見かけるが、日本ではまれだという事実をあげ、「町の段差と心の段差」がその原因と指摘する。もしそうだとすると、それらの段差は何から生み出されたのか。この本だけで考えれと、養護学校という聞いたこともない学校に多くの障害児が集められていることが、生み出したのではないかと思えてくる。

分離教育を推進する立場からは、「交流教育」をやっているからそうではないということを力説するところだが、この本ではそれがない。このセットの中では、2の「目でしっかりきく」が交流教育に触れている。1と2の視覚障害と聴覚障害では分離教育に迷いがないのに、3の肢体不自由ではそうではないようである。