千田好夫の書評勝手

うすきみ悪さの中のわずかに幸いなこと

去年の夏に莫大な国費を投じて全国すべての小中学校に配布された『心のノート』。これからも毎年度配布されるという。家庭への持ち帰りを奨励し、子どもと家庭の「道徳」にカツをいれ、国民道徳の建てなおしをはかる文部科学省の切り札として出された。教科書には厳しい検定があるのに、それをすりぬける副読本という形をとりながら、使用義務化までちらつかせた、まさに掟破りの国定教科書である。

しかし、手に取ると薄くてきれいだ。まるで銀行やマンション販売のパンフレットのようなつくりで、全ページポスター仕上げである。広告宣伝や心理学の手法を大幅にとりいれ、とりつきやすさに工夫を凝らしている。こういう点は多いに学ぶ必要があるかもしれない。

もちろん、内容はさんざん多方面から批判されているとおりで、政府文部科学省がおし進めたい国民道徳の考えに導くものである。うっかり読んでいると、素朴な正義感やエコロジー的感覚をマインドコントロールされて、偏狭な愛国心にひっぱっていかれる恐れはありそうだ。

ただし、それはあくまで平均的マジョリティの場合である。三浦朱門・元教育課程審議会会長の「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです。…それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」という発言を彷彿させる。

その「非才、無才」ではあるが障害者というマイノリティの視点から見ると、この『心のノート』は限りなくうすきみ悪い。だいたい、この手の本は必ず障害者を登場させ福祉についてふれ、こそばゆい思いをするものだが、中学校用には障害者は全く登場しないのだ。(小学校用には大人の障害者を「手伝う」子どもの絵はある)

冒頭から「元気ですか。あなたの心とからだ」ではじまり、障害のない子どもの絵が誇示される。そして「この学級に正義はあるのか!」と突然絶叫調で「糾弾」(三宅晶子さんの評)されるクラスにも、障害者らしき生徒はいない。「差別や偏見をなくす」というが、いったいこのクラスに具体的にどんな問題があるのか?「いじめ」のことなら、かならずそこには学校にとどまらない原因があり、生徒一人ひとりの心の問題にしぼられるはずがない。ここでは、子どもは「おまえが悪い」と一方的に責められている(梅村浄さんの評)のだ。

さて、中学生と同年齢の障害児がここにいないのは、文部科学省のたてまえでは現在の普通学級に障害児は存在しないことになっているからである。文部科学省発行の「国定教科書」に書けるわけがない。ああ、こういうのを政府文部科学省は理想としているのだ。「特別支援教育」などという意味不明な政策の実態は、視覚化すると意味明瞭だ。分離空間のうすきみ悪さがじとっと伝わってくる。

また、福祉一般についても全くふれず、「働くことがもっている大きな意義」だけかたっているのは、そんなものに頼らずしっかり働け!と駆りたてているように読める。まるでこの世には、失業も病気もないかのようである。

ところで、「差別や偏見をもたず」というのが、もう一カ所でてくる。国際化のところで、アフリカの人々の写真が出ているところだ。しかし、日本人の日常で直ちに問題になるのは、在日朝鮮人・中国人への「差別や偏見」であるはずで、これを無視するのはかなり意図的と言わねばならない。

きわめつけは、子どもの権利と自由へのしめつけである。あなたには、こういう権利と自由があるというのではなく、多大なページをさいて「ルールを守れ」「他人の権利を尊重しろ」「義務を果たせ」「自分だけ良ければいいのか」「気持ちいい場を共有したい」と説教する。政府機関としては、子どもの権利条約違反である。

政府機関が国民の道徳を育成するという発想は、中国式皇帝支配や明治政府の手法だ。必要悪としての権力機構は謙虚でなければいけないのに、人々の上に立っているつもりなのだ。そもそも権利といい自由といい、絶対王政権力との闘争の結果得られたもので、それは歴史的経過でもあると同時に、権利と自由の本質をも表している。われわれの人生を国家権力の横暴から守るものなのだ。「道徳」の仮面をかぶって、その権利と自由を無力化し、戦時中のような「少国民」をつくるのが、やはり『心のノート』の狙いのようだ。

だから、ここに障害者が登場しないのは、そら恐ろしいことであると同時に、わずかだが幸いなことかもしれない。