インクルージョンのイメージ
先日、酒を飲んでいたら突然ある光景を思い出して涙が止まらなくなった。それは、小学校3年の遠足でのことで、私の父が歩けない私をおぶって丘を登っている最中に何かに足をとられて倒れたのだ。その時、笹の切り株に手のひらをついて父がケガをして、保健の先生がすぐに手当てをしてくれた。私はその光景をしばらく忘れていた。いや、記憶を押し殺していた。それを40年ぶりに思い出したのだ。
私は小学校にも中学校にもすんなりとはいれてもらえなかった。やっと入った私立小学校では毎日というくらい殴る蹴るのいじめにあった。遠足のような行事には親が来ることがあてにされた。学校も先生も決して悪いところではなかった。むしろいい学校だった。しかし、いじめの事実を知りながら何もできなかった。私はずっと思っていた。「しかたないよな。先生だってどうしようもないんだから」
同じ言葉を穏土(おんど)幸実ちゃんもいっていた。彼女は人工呼吸器をつけて小学校1年の1年間を通いきって亡くなった。彼女の場合、級友たちはとても自然に彼女を受け入れたが、学校は「安全」を振りかざし同じ一人の生徒としては扱わなかった。登校時の「おはよう」の声かけもなく、二階の図書館や教室に行くときは一階の教室に残らされ、プールの授業では終始見学させられた。医療的ケアは法律の壁もあり、学校は協力を断り親御さんがそのために待機しなければならなかった。かたくなな学校の姿勢を幸実ちゃんは「しかたないんだ」といってたという。(本書162頁)
何の支援策もなく障害のある子を通常の学級にいれると、日本では様々な問題が生じる。ある人たちはこれをダンピング(放り込み)といって冷笑する。自分たちの消極的対応や積極的妨害を棚にあげてあきれたものだが、そういう現実は確かに存在する。
存在するけれども、しかたないなんてことはない。今の私はそう思う。2月の障害者国際交換プログラムで、作業療法士のジュディは、「どうして、日本では障害児を普通学校にいれたままにするんですか?作業療法士を学校にいれれば解決できる問題はたくさんあります」と不思議そうだった。インクルーシブ教育の進んでいる国では、親と教師が子どもの教育プログラムをつくり、その子の年間目標を立てる。障害児の場合は、その目標を親と教師に加えて特殊教育の専門家と医療関係者が加わって立てる。その4者がチームとしてその子の成長を見守ることになる。
そんなことは人権意識の進んだ欧米でしかできないのか。いや、日本でもある程度のことはできる。しかもそれは、昨日今日のことではなくなんと養護学校が義務化された1979年から、大阪府大東市では、理学療法士が学校へ出向く形で普通小学校への障害児の受け入れを始めているのだ。(224頁以下)現在では、学校選択権を親と本人に認める形でほぼインクルージョンをシステムとして確立している。(79頁)ぜひ本書を一読していただきたい。
しかし、インクルージョンではこれで完成という形はない。常に生じる問題に対して試行錯誤をして発展していくものだ。たとえばいじめだって、まだまだある。それに対していじめてはいけないと説教するのでは、「弱者」だから配慮しろ、つまり君たちとは違う存在だと教えることにほかならない。(75頁)それではどうするのがいいのか?
また、就職問題もいぜんとして存在する。景気が後退しているから「しかたない」のではなく、システムとして存在しないことが問題なのだ。大東市でも職業に結びつく直接の指導は行われていない。(137頁)
私はこの二つは実は同じ問題だと考えている。「千田君はどうして歩けないの?ずっと歩けないの」と生徒が素直な疑問を出したら、教師は「そう、ずっと歩けないんだ。だからいじめるな」ではな、「今は歩けないけど、松葉杖や車いすを使えば君たちと一緒にいくことができる。大人になれば、車もパソコンも使えるようになって、君たちと同じような仕事ができるはずだよ」と、障害のある子にもない子にも、未来と社会につながる話をして同じ存在として気づかせるように指導してほしい。これは絶対に自然発生的にはできない。このような話は障害によってすべて違うから、教師はよほど勉強しなければならない。これが、今私が考えているインクルージョンのイメージの一部である。