自立した人間の廉恥心とはなにか
8月19日の毎日新聞に、「被ばく3住民、提訴へ」という記事がでている。東海村臨界事故で「健康に対する影響は検知できないほど小さい」とする国の見解をたてに、住民の健康被害の認知と補償の要求を拒否したJOC並びに住友金属鉱山を、住民が水戸地裁に9月上旬にも訴えることになったということである。前々回に『無視される残留放射能リスク』で取りあげたことが、いよいよ問われることになったのだ。
国の見解がそのようなのは、核武装の意図があるからだ。日本の権力を握っている政治家達は保守主義者だから、もとよりそのような意図があるのは理解できるとしても、それを公然化させてもよいという判断をどのようにしたのか。日本社会「右傾化」だけでは説明できない。核武装しない右傾化だってありうるからだ。
それを説明するのが、本書である。初刷がでたのは65年、私が読んだのは94年の58刷。今は何刷目か。既に古典になっているロングセラーだ。たとえば、次の文章。
「原爆を投下したアメリカの軍事責任者達が、広島市民の自己快復力、あるいはみずからを悲惨の内に停滞させておかない、自立した人間の廉恥心とでもいうものに寄りかかって、原爆の災厄にたかをくくることができたのであろうことを僕はたびたび考える。しかし、もっと広く、われわれ人間一般が、このように絶望しながらもなお屈服しない被爆者達の克己心によりかかって、自分たちの甘い良心を無傷にたもつことができたのであることも、われわれは忘れてならないであろうと思う」
広島は見事によみがえった。だから核兵器を使ってもそれほど気にしなくてよい。敵国を威嚇しバランスを保つには核は必要だとする、驚くべき短絡がある。かつては原爆を落としたアメリカだけの短絡だったが、次第に核兵器保有国が増え、その分この短絡も拡散し、何と今では唯一の被爆国日本でさえも短絡の側に回っている、ということがこれでみごとに説明できる。
さて、この引用文は実は結構むずかしい。「自立した人間の廉恥心」とはなにか。それは次の文章にある「絶望しながらもなお屈服しない被爆者達の克己心」とほぼ同義であることは明らかだが、廉恥心も克己心も今は死語同然だ。
原爆投下直後の悲惨な光景をここでくりかえすまでもないだろう。しかし、原爆による直接的な死者が激減した45年秋にはGHQが「もはら残存放射能による生涯的影響は認められない」と声明をだしたように、白血病を中心とする様々な症状と被爆を結びつけることは科学的には難しくなってくる。しかも、破壊されつくした生活を心身共に障害をおいながら再建しなければならない。白血病の死亡者が続出し、経済的な困窮で自殺者も出てくる。だが、多くの人々は確実な死へとむかってることを知りながら苦しい再建の闘いをつづけた。そこに筆者は人間としての普遍的な「モラル」をみるのである。
被爆の悲惨さは語りつくせない。しかも、語ることも難しい。むしろ、「ピカは早くわすれたい」という被爆者もいる。語らず、わすれる権利が彼らにはある。しかし、顔にケロイドをおい世間の目をはばかって暮らしている人々、生還の見込みのない白血病にかかった人々が、みずからの人生の意味を問い返すとき、悲惨、恥、あさましさをすべて逆転して、人間的名誉、威厳を取りもどす。それには、恥辱をさかてにとってみずからが核兵器廃絶の思想的原点になる以外にはない。この「威力」を被爆者・非被爆者がともに確認することが必要なのだ。
まったくそのとおりだ、と私は実存主義的な筆者のモラル観に同意する。障害者の自己解放の想いとおおいに通じるものがある。もっとも、私はそこに一抹のヒロイズムをも感じずにはいられない。カミュの『ペスト』がこのノートに深く影響しているのは明らかだ。自らも被爆しながら、何万人という被爆者を救援した多くの医師達の姿に筆者は深くつきうごかされている。しかし、何万人もの死者が、何十万もの被爆者が、人間的名誉、威厳を取りもどす「逆転」をかちとるには、平和や核廃絶を介さずとも、ただの普通の日本人つまりただの人間として、人間的名誉、威厳を取りもどす道が示されることが不可欠なのだ、と私は思う。