無視される残留放射能リスク
この本の「自ら測定した渾身のレポート」という副題が目について手にとった。あのチェルノブイリやビキニはどうなっているのだ、という思いがよぎる。筆者は、その二カ所以外にも、旧ソ連の核兵器製造拠点マヤーク製造企業体周辺(チェリャビンスク)、カザフスタンのセミパラチンスク実験場、「核爆発の産業利用」により被曝したロシア連邦サハ共和国、そして臨界事故のあった東海村の四地区を、実際に計測器を携えて調査している。チェリャビンスクとサハは初めて知っただけに、おおいに興味をそそられた。筆者は広島大学原爆放射能医学研究所国際放射線情報センター助教授。
さて、広島に投下された原爆は、上空五百メートルで空中爆発させたため、原爆自体の放射性物質は1万メートル上空にたちのぼり、ほとんど直下には降下せず、全地球を汚染した。直後に、放射化された地表物質がまいあがり黒い雨となったが、その放射性物質は半減期がごく短く急速に減衰した。これが不幸中の幸いとなって、人々の住める環境となり今日のめざましい復興をもたらした。
しかし、広島は長崎とともに、人類史上初の核攻撃を受け、たった一発で14万人も亡くなった。この直接の死傷者も莫大だが、放射線による健康被害後遺症は、障害による多くの困難と差別をもたらし、大きな社会問題となった。筆者はそれを「大きな恐怖心を私たちに与えた」といいながら、「一方、その後の両市の復興の努力と結果は、あまり知られていない。さらに被爆二世へ遺伝的影響が現れていない事実も知られていない。こうしたプラスの情報を積極的に発信していく」という。
詳しくは本書を見てほしいが、筆者のこの姿勢が上記六地区の調査にも貫かれる。 各被曝地に出張調査し、強度の汚染が残っている地点を除けば現在の放射線レベルは心配ないと、被曝した人々に知らせてまわる。もちろん、被曝地で暮らささざるを得ない人々は、何も確たる情報を当局から与えられていないのだから、当座の安心を得たはずで、それ自体はとてもいいことだ。
いいことには違いないが、残留放射能による低レベルの被曝が長期に持続した場合の人間への影響について、「たいしたことはない」とはいえないのではないか。人類にはたかだか二世代、60年弱の被曝の経験しかない。それだけで何がいえるのだろう。また、自然界の放射線からも被曝していると筆者は強調しているが、この半世紀の間の実験や事故から放出された様々な放射性物質(半減期2万4千年のプルトニウムはもちろん、セシウムなど半減期が短いものでも長い間放射能をもちつづける)が環境中に確実に蓄積して、自然界の放射線を増大させていることにはなにもふれていない。しかも、健康被害がもたらす経済的困窮や差別といった社会的側面を無視している。無用の恐怖心を除こうということが本書の目的のようだ。
そのため、「交通事故の考え方は、原子力事故の考え方を理解することにも役立つかもしれない」と、筆者はいう。たしかに、事故の発生確率としては、多いか少ないかというレベルの話になる。しかしそのもたらす影響は、決して同じでなはない。自動車事故は、たまたま居合わせる不運、居合わせなくても係累として肉親として苦しむという不幸をもたらすが、その影響は限定的だ。だから自動車事故の方がましだというつもりはさらさらないが、原発事故は、人を含めた生物に計り知れない健康被害・環境被害を、一瞬にしてしかも広範囲に、長い年月にわたって及ぼしてしまう。それは、この本自体がていねいに説明しているところではないのか。
いや、釈迦に説法、筆者はそんなことはよくご存じだ。だから、「交通事故」といったすぐ後に、「反面、莫大な量のエネルギーと放射性物質が一箇所に集中しているので、特別な形での安全確保が要求されるのは当然のことである」という。
この背景には、原発を含めた原子力の「平和的・商業的利用を続ける」という筆者自身の政策的判断があるのではないか。安全神話が作り話であったとしても、「わが国の21世紀のエネルギー基盤を支えうる原子力政策を、簡単に放棄するわけにはいかない」と筆者はいう。「科学的民主的な取り組みと議論が求められる」といいつつ、その議論のやり方に提案がないのは、自らの政策的判断が絶対であるからだ。だから、「無責任に被曝リスクを話す一部『科学者』たち」「恐怖を煽る報道」を非難しているのだ。さらに、高レベル放射性廃棄物の隔離保管を何千年もしなければならないが、筆者は、千年後にだって日本社会は存続しつづける、それを疑いたくないというだけだ。人類世界で千年の長さで一つの社会体制がつづいた例は存在しないのにもかかわらず。
講談社のブルーバックスはこの本以外にも、「放射線は少しなら心配無用」と主張する近藤宗平著『人は放射線になぜ弱いか(第三版)』【bk1/Amazon】を出している。この動きは、近ごろ自民党の複数の幹部が核武装という野望を故意に漏らしていることと、決して無縁ではないはずだ。核兵器には反対だが核エネルギーを賢く使おうという筆者の主張が、そのような野望に根拠を与えるものであってはならないと思う。