ごめんこうむりたいこと
60年代後半、様々な色の帽子がはやった。ただし、形・材質は一緒。そう、鉄でできたヘルメット。かぶっていたのは主に学生だ。それは人間の頭部を保護する物で、工事現場で使われているのと同じだ。それが何で必要だったかというと、襲撃されるからだ。そうか、昔の学生は政治活動を盛んにやって、警察機動隊の警棒で殴られる恐れがあったからかと思われるかもしれない。それもあるけれど、警察よりもっと危ないものがあった。それは、対立党派だ。
なんだ? トーハって? わずかな言い回しの違いを、立場性の違いのように言い立て、自分たちだけが正しいと思いこむ、そういう人たちのグループのことだ。意見の違う人に投げつける「小ブル急進主義」というレッテル。嘲笑。蔑みきった目つき。心底人間性を疑う、いやその当人の人間性を疑わせる目つき。それに自治会費などの利権がからまると、相手の肉体的抹殺にまで突き進むのはいともたやすい。対立する党派の人たちを殴る蹴る。ちょっとのけがは運のいい方で、障害が残ったり、死んだりしても何の不思議もない。
それが「内ゲバ」だ。その「ウチ」とは、いわゆる身内のことで、共に革命をめざし国家権力に対峙する者同士ということだ。それらの同士討ちなのだ。それは、何の利益もないだけでなく、お互いに消耗し、その幻滅から党派以外の人々つまり「大衆」(いやな言葉だ)の支持を失わせる。そして更には、広範な幻滅を呼び起こし、様々な変革を目指す運動や試みを一網打尽に衰えさせる。こんな誰でもわかる、単純で罪深い成り行きを、党派の人たち、その指導者たちは知らなかったのか?
もちろん、知っていた。知っていてもどうしようもなかった。それが何故だったのかを、この本は分析している。特に第三章栗木論文「内ゲバの主要因――新旧左翼の唯一前衛討論」がそうだ。昔々、コミンテルンという世界共産党組織があり、各国共産党はその支部だった。支部と言うからには、コミンテルンの認める正統的な党は一つの国に一つしかあり得ない。分派は激しく排除される。こういうスターリン主義のお仕着せが、日本人の欧米崇拝・事大主義によって、左翼に深く浸透し、旧左翼のみならず、反スターリン主義を掲げたはずの新左翼に皮肉にももっとも強く現れてしまったのだ。なるほどと納得させられる。だから栗木論文は、意見の違いを認めあう「統一理論」を強く勧める。
しかし、その栗木論文にも明確でないのが暴力の否定だ。
党派は自らを「前衛」といい、それ以外はすべていっぱひとからげに「大衆」という思い上がりの構図を描く。これは軍事組織がモデルなので、けんかにめっぽう強い。だから前衛を自称すると、どれも似たようなものになり、近親憎悪をかき立てる。キング牧師やガンジーをあざ笑い、暴力を賛美する。少なくとも必要悪として認める。暴力をいったん認めると歯止めが利かない。対立党派のみならず、同じ党派の中でも意見の対立がすぐに暴力沙汰になる。強姦や幼児虐待、なんでもある。本書第二章生田論文では、ある党派内部に設置された保育所が襲撃される場面が生々しく報告されている。ヤーさんの出入り以下だ。いくらなんでも……と絶句してしまう。
もし、暴力で革命政府ができたとする。暴力に貢献できなかった者(特に障害者)は、低い位置しか与えられないのは理の当然だ。民主主義とはとても言えない。そういうものはごめんこうむる。ごめんしてこそ、「統一」ができるのではないか。栗木さんとはそういう話をしたかった。(栗木安延氏は2002年3月1日に逝去)