千田好夫の書評勝手

変わる縄文時代像

21世紀の最初の1年が過ぎようとしている。この年のトップニュースは、なんと言っても同時多発テロだ。戦闘は少しづつ落ち着いてきているものの、抜き差しならない憎悪が世界中に蔓延している。忘れてはならないのは、日本人はこの事件と無関係ではないということだ。それは現在の国際関係から「旗を見せて」アメリカに荷担しているというだけでなく、過去のこの列島上の歴史からも言えることだ。

古代東北が長く倭国に服属せず独立を保てたのは、それなりに豊かであったからだ。しかし、倭国による征服後、直接の略奪や重い税負担の他に、住民交換という形で人も奪われて急速に衰えてしまった。江戸の大飢饉から昭和の農村恐慌に代表されるように、東北は貧しく文化的にも遅れているという差別的イメージが強くできあがった。宮沢賢治のどこか寒々とした透明感は、東北の貧しさに対する緊張を感じさせる。

東北が稲作を中心とする農業に不利なのは、本州の北部に位置するからというより、夏に前線が引っかかって日照時間が少ないからだ。この面では北海道より条件が悪い。賢治の「サムサノナツハオロオロアルキ」という詩の一節がそれをよく表している。近年は稲に限らず様々な作物の品種改良の結果、寒さや病気に強く味も良いものが開発され、貧しく遅れているというイメージが払拭されつつある。実に千年以上の歳月をかけて、ようやくここまできた。

それまで不利な生産様式でやってきたのは、征服の結果、押しつけられたからである。植民地とはそういうものだ。現在のテロが欧米による植民地支配を淵源としているように、東北蝦夷の反乱も数百年の長きにわたった。結局同化政策に屈し、蝦夷も日本人に組み入れられたが、鬼の面に代表されるような憎悪・差別感はごく近年まで残ってしまった。

しかし、植民地政策を擁護する人は必ず次のように言う。「インドや朝鮮にしろ、文明的に低かったのを引き上げてやったのだ。ダムだって鉄道だって造ってやった。むしろ持ち出しだ。」ところが、インドも朝鮮もイスラム社会も、征服者がやってくるまでは自分たちの流儀でそれなりに豊かだった。奪うものがあったからこそ、植民地にされたのだ。富を略奪された上に、文化的あるいは気候的条件の違いを無視して欧米流や日本流の生産様式を押しつけられたことによって、「文明的に低く」見えるようになったのだ。

それでは、古代あるいはそれ以前の東北の豊かな生産様式というものはどういうものなのか。それを知る手がかりは、平安時代に陸奥国や出羽国が都に献上すべき品目である。鹿の皮や尾、熊の皮と膏、昆布、砂金、馬等がそれで、日本式農業が普及する前だから当然といえば当然だ。しかし逆に言えば、これらの主製品を交易することによって生計を立てていた蝦夷の人々の生活が見える。征服は、税として徴収することも含めて交易レートを倭国側に有利にするために行われた。蝦夷の人々はかなり米やヒエを栽培していたほか狩猟と漁労によって食糧を得ていたが、自給するには足りなかったのか盛んに交易を行っていた。樺太はもちろん大陸とも行き来していたと考えられる。倭人は主要な取引先の一つだったのだ。この交易を主体的に行っている時には、それ相応の収入があった。ところが、倭人によって交易レートを不利にされることによって、やむなく日本式農業に転向させられたと考えられる。それによって生活水準(文明)は低下した。それはアイヌの人たちが征服される過程にきわめてよく似ている。

さて、東北地方では倭国が弥生時代に入った後も縄文式の生活が続いていたことはよく知られている。あの山内丸山遺跡の発掘の成果によって、縄文時代に都市があったと大きな話題になった。実際に行ってみた人もいるはずだ。ここには300人から500人の人たちが1500百年の間住んでいた。本書によれば港を備え、そこに至る幅12メートルの道路があり、六本の大きな柱によるやぐら、あるいは楼閣があった。この建物は、神事を催す所として、また、灯台として用いられたのではないか。大規模な倉庫群があり、海外や他地域と交易するだけでなく、青森平野一帯の集落をつなぐ物流センターであったと思われる。それは事実上の首都機能も果たしていたのだろう。東北・北海道は発掘調査が遅れており、今後もこのような拠点都市が見つかる可能性は高い。

本書では、「縄文時代の商人たち」が活躍していたと、かなり刺激的な考察を対談の形で述べている。このような世界が倭国の貪欲さによって滅ぼされてしまったのだ。本書は古代へのロマンというだけでなく、現代史の見方をも示していると言える。