千田好夫の書評勝手

想像できること、できないこと

佐藤さんの文章はあたたかい。これは、千葉の「生活と教育を考える会」の機関誌『ワニのなつやすみ』に連載されているエッセーだ。その中にこういうことが書かれていた。ある学習会で次のような発言があった。「知的障害の子どもがどうして高校なのかわからない。何年も浪人したり、何年も留年したりしてまで、なんでそんなに高校にこだわるのか?」これに対して佐藤さんは思う。「生きていることになんの意味があるのか」と聞こえる、と。つまりそれは、われわれの「想像力」が「障害のある子もない子も一緒に学校生活を送るという、ありふれた光景に届かないだけ」なのだ。

そう、おそらく想像できないだろう。今の日本では、決してそれは「ありふれた光景」ではないからだ。たとえば車いすを使っている人とのつきあいがなければ、自分が車いすの人とつきあう、あるいは自分自身が車いすを使うようになることを想像することは、ほぼありえない。ましてや車椅子を使用する人生に何か「意味がある」とは、とうてい思えもしない。

しかし、千葉でだけではなく、どこでもふと頭をもたげるこのような発言には、もっと別の要素もあるのではないか。知的障害者の高校生活が意味ないと考えてしまうのは、そう言っている人自身の高校の体験に「なんの意味もなかった」からではないかと、私は思う。

こういうことではないか。オリンピックの選手は、100メートルを9.9秒で走る。普通の人は一生懸命走っても20秒以上かかる。この違いと、普通の生活と車いすを使った生活との違いとの間には、車いすという目に見える断層がある。しかし、知的障害をもつものと知的障害をもたないものとの間にはこれほどの画然とした違いがない。今、「ゆとりの教育」という名の下に能力別クラス編成が進められようとしている。そこで飛び級できる子、まあまあできる子、普通の子、ややできない子、できない子、その下に特殊学級の子、それぞれにクラスが分けられてしまうとする。この分けられ方は、子どもの間に差別と選別をもたらすが、段階的な連続性も与える。そういう意味において知的障害者の高校生活は「想像」できる。

実際にこういう露骨なクラス編成がどこまで行われるかはわからない。しかし、たとえ行われなくても、このような意識は確実に存在するし、ますます強められていくだろう。加えて高校は大学への予備校であり、序列は見事にできあがっている。それはこの発言者が高校生(旧制中学?)だったときもそうだった。高校生活にいい思い出はないかもしれない。教育機関が子どものふるい分けとあきらめを強制する場所であるかぎり、最底辺に位置づけられるに決まっている知的障害者の高校生活に「なんの意味があるのか」という意識が生じるのは、当然である。

にもかかわらず、障害者は高校をめざす。ある人は競争のスタートラインに立つために、ある人は同世代と生活を共にするために。この違いの上に、「共に」の質をめぐって、実はさまざまな違いが存在する。「あの子はお話しができる」「あの子はお名前がかける」「しかしうちの子はなにもできない」「だからあの子の経験は参考にならない」と思っている人は多い。違いの分だけ「共に」のあり方が違うはずだし、違っていいのだが、その違いを確認してお互いに受けとめ、「共に」の中身を深めるという作業をしてこれなかった。それが時にひょっとこのような発言で顔を出す。差別選別教育に対して、豊かな「共に」のイメージを出していかないと、「学校は勉強で序列をつけるところ」というイメージにいつまでも勝てないと、あらためて思う。