バリアフリーだけでは何故いけないか
最近、だいぶ足が痛くなってきたので、直接自宅から仕事場まで電動車椅子で行くことが増えた。通勤だけでなく、営業にも松葉杖を携帯して電動で行くようになった。それには当然電車を使うことになる。ところがこれがなかなかのアドベンチャーなのだ。物理的にも、精神的にも。何故そうなのかを本書によって考えたい。
まず鵜の木の駅。この2月にできたばかりのスロープでホームに上がる。このスロープは足腰の弱い人、大きな荷物を持った人、急いでいる人などがよく利用している。車椅子利用者もついでに使わしてもらう。だが電車に乗り込むのには駅員の助けが必要だ。電車の入り口の方がホームより数センチ高い。ついてきた駅員がジュラルミンのスロープを差し渡す。降りるときも駅員が迎えに来るが、車両や時間をよく間違える。来ていなくてオロオロしていると、周りの乗客たちが「降りますか?」と助けてくれる。しかし、場合によっては「今駅員の人が迎えに来てくれますから」と断らねばならない。妙な具合だ。
こんなのはまだいい。JR蒲田の駅は改札口が2階で、ホームにはエスカレーターで降りねばならない。エスカレーターを止めて、駅員が他の乗客が乗ろうとするのをさえぎり、逆回転させる。すると三つの段がフラットになり、切り立った崖のようになる。そこに車椅子が乗る。それでしずしずと駅員に付き添われて降りる。その間他の乗客は立ち止まってぽかんと見ている。「障害者だからって独占するな」という声が聞こえそうだ。実際、著者は「私たちも車椅子だったらよかったのにねえ」という声を聞いている。
そうは言っても、「バリアフリーになったのだからいいのではないか。何もないよりも」という意見もあるかもしれない。しかしそれでは、「やってもらっているのだから文句を言うな」と聞こえる。ここに見えにくい差別がある。
確かにこのエスカレーターのおかげで、階段という「障壁」(バリア)はなくなって(フリー)は、いる。けれども、駅員に依存を強いられる上、他の乗客とは物理的にも精神的にも切り離されてしまった。これに対して、大きなエレベーターなら独自に使え、他の乗客とも一緒に乗り込める。共用、すなわちユニバーサルである。しかし、エレベーターでも東京駅のように他の乗客は立入禁止にしていると、ユニバーサルとはいえない。同様に、車椅子用トイレであっても、表示に車椅子マークしかなかったり「車椅子専用」とあれば、バリアフリーではあっても、ユニバーサルではない。
それではバリアフリーの何が問題なのか。「みんなのための」バリアフリーにはならないのか。本書によれば、バリアフリーは特別扱いになってしまうところに問題がある。障壁(バリア)が無くなっても、嬉しいものでなければ何にもならないのだ。「みんなのための特別扱い」がいくつもあってはたまらない。それをうまく表現する言葉が本書で紹介されている。その中で二つあげたい。
一つはインビジブル(invisible)=目立たない、ということだ。それは東京駅のように人に見せないことではなく、多摩川線の全駅にできたスロープのように、さりげなくできていて、なるべく多くの人がそれとは知らずに使えるデザインでなければならないのだ。
もう一つは、インクルーシブ(inclusive)=排除しない、誰でも含められるということだ。日本では、バリアフリーというと「高齢者」や「障害者」の問題と思われがちだ。もちろん、高齢者や障害者が使いにくいものではいけないが、特定の人のためという感じを生みだしてはいけない。それに対してインクルーシブは、問題点を明かにしながら到達すべき目標を常に意識することができる。
つまり、ユニバーサルデザインとは、誰をも排除せず、しかも目立たないデザインだということだ。だから100%ということはありえず、とりあえずから出発して不断に改良されていくものである。そのためには、そのプロセスを保障する柔軟な社会の仕組みが必要だ。そういう意味では、多摩川線のスロープもJRのエスカレーターもいつの間にか作られ、事前にも事後にも評価システムが公開されていないのは不思議である。良かれ悪しかれ、われわれユーザーはただ与えられているにすぎない。
それなら、どういう社会システムがいいのかは、本書に「九つの原則」としてまとめられているが、一冊の本では述べきれない重要な課題で、これからわれわれも考えていくべきことだ。日頃何気なくアパートのエレベーターを使い、駅のスロープを使い、エスカレーターで気分がくさる、この日常的繰り返しから何をなすべきかを、本書は示しているのだ。