千田好夫の書評勝手

文化としての「障害」

「みなさんは、目が見えない人のお話を聞かれたのですから、ある程度目が見えないということについてイメージを持っておられると思います。しかし、それでは目が見えるということはどういうことだと思いますか」

私はそこにいる人たちに問いかけた。

「たとえば、遠くに見える小さな棒が実は巨大な電柱であることをみなさんは知っています。本当にそうだという保証はなにもないが、おそらくそれは99%確かである」

「でもそう確信できるのはどうしてですか? それは訓練した結果ですよね。小さい頃から非常な努力を重ねて身につけた社会的約束なのです。信号の色を覚えるのと一緒です」

そんなこと当たり前じゃないか、とは誰も言わなかった。

「だから、社会的約束を別の形で獲得できれば、目が見えなくとも社会生活が可能です。実際目が見えない人たちはできる限りそうしています。それを阻んでいるのが社会的障壁であり、差別なのです」

だから、目が見えないから、あるいは歩けないから「気持ち悪い、かわいそう、気の毒」と思うことはこの社会的障壁を見えなくしてしまう。これは文化の問題なのだ。たとえば、同じイスラム圏でも、西アフリカのギニアと東南アジアのインドネシアとでは障害者の社会的立場が違うというのを聞いたことがある。ギニアではたとえ地面をはいまわってでも障害者は人々とともに暮らしている。しかしインドネシアでは、障害者は家の恥とされるからか家畜小屋におかれているという。かつてアメリカのろう者たちが「ろう文化」を唱えて、自分たちは障害者なのではなく言語的マイノリティであることを主張したことについて、私は「障害者とは違う」という部分に反発を覚えたのだったが、彼らの主張の核心が文化の問題であるとすれば、おおいに共鳴できる。

上記の本は、その手がかりになる。筆者スーザンは聴者でアメスラン(アメリカ手話)の通訳、主人公は南メキシコ出身のネイティブアメリカンで、ろう者であるイルデフォンソ。27才になるまでスペイン語はおろか手話も知らず、言語と無縁で過ごしてきた。人間はごく幼い頃までに言語を獲得しなければ、脳に言語野が形成されず永久に言語を獲得できないとされている。しかし、人々とコミュニケーションしたいという彼の熱意、未知の世界へともに旅立とうとした筆者の熱意とが、その常識をくつがえしていく。

文献も助言者もなくまったくの手探り、文字通りの手探り、アメスランとマイム(表情と身ぶり)で身を焦がすような日々が続く。しかし、ついに彼はネコ(cat)という単語を獲得する。他人と意味を共有できる「ネコ」という抽象に到達したとき、イルデフォンソは机につっぷしてさめざめと泣いた。それまで外界から彼をさえぎっていた壁の正体を見きわめたときに、過ぎ去った日々、奪われた年月の長さに思いをいたしたのかもしれない。もちろん、その壁はただ一つではなかった。時間や文法といった概念を獲得する必要があった。本書はその過程を明らかにし、読む者の心を揺さぶる。

社会的約束、抽象、概念、こういった文化的装置を言語を通して当たり前のごとく使いまわしていると、そこに問題があるという指摘はすぐには受け入れがたい。「歩けることとはどういうことだ、と言われてもねえ」と、不思議な顔をされる。でも、あなたは何かをしたいとき、歩けることを意識せずにゴールを目指す。私も歩けないことを意識せずにゴールを目指したい。設備を含めた文化的装置の改善があれば不可能ではない。それが「対等」ということの中味の一つなのだ。