千田好夫の書評勝手

陰の主役 ジョン・デューイ
―2000年交換プログラムの報告(2)―

同じように「共学」ではあっても、インテグレーションとインクルージョンは違う。両者を分けるものは、個々の子どもが教育のなかできちんと注意を払われるているかどうかである。それではインテグレーションが間違っていたかのようだが、決してそうではない。インテグレーションは、アメリカ社会の厳しい人種差別に対する、黒人を先頭としたマイノリティの公民権要求闘争の成果であった。ここでの主要な課題は隔離の解消であったので、とりあえず共学を目指したのだ。この公民権要求が、障害当事者と障害児の親による運動に引き継がれた。

しかし、単に一緒にしただけでは、障害児に対する健常児の侮蔑観や、障害児が教室の中で放置されてる状況を少なからず生みだした。一緒にすればそれですべてうまくいくとわけではなかったのだ。インテグレーションさえ実現していない日本でも、似たような状況がある。例外統合的に普通学級に入れても、設備や人的な配慮、教科上の工夫はまったく見られない。あってもその学校、教師、級友の個別努力に頼らざるを得ない。どこの教育委員会でも同じように言う。「ちゃんと何から何まで配慮されていて専門スタッフのいる(それは嘘!)養護学校があるのに、そこにいかないで普通学級にいるのはお宅の勝手だ。うちとしては何もできない」

まさにここにメスを入れるのがインクルージョンなのだ。統合しても放置はゆるさない。その法律上の支えが全障害児/者教育法(Individual with DisabilitiesEducation Act)である。この法律の目的の一つは、障害のある子どもに無償で適切な公教育を保障することだ。適切というのは、その子どもの個別のニーズを満たすサービスを共学の公立学校のなかで提供するということを意味する。

この法律で重要なのは、一人ひとりにあった個別の教育プログラムを作ることだ。これは、その子の強いところ、弱いところは何かを見つけ、ニーズに焦点を当て、何をどのくらい、どこでだれから教わるのかを決める。赤ん坊から22歳までに障害があるとわかったそのときから、親も参加して個別プログラムをつくる。情報紙をつくり病院や保健所などに置き、お医者さんにも、障害のある赤ちゃんが来たら、そうした情報があることを伝えてもらう。障害を早期に発見して、サービスが受けられるようにする。

このような法律が日本でできたら、おそらく大問題になる。「障害の早期発見」は、日本では障害による隔離の第一歩である。個別ニーズに応じるというが、能力主義につながる恐れはないか。それに学校に何もかも期待するのは幻想だ。大体、医療行為は医師や看護婦以外には禁止されているではないか。まったくその通りだ。しかし、アメリカでもどこでも統合教育に取り組んできたところは、懸案を一つ一つクリアしてきたし今もしている。日本もそうするしかない。

グエンさんは、日本の新指導要領に「総合学習」が盛り込まれているのを、デューイの方法だと評価していた。デューイの本では、郷土の地理・産物・歴史、生徒たちの年齢と興味関心を考慮し、地域と家庭の現実の生活とのつながりの中から、作物を育てるとか、縫製や料理、木工や製本など学校としてカリキュラムを決めて具体的な作業を行う。それを通じて科目横断的な知的関心や疑問を子どもから主体的に引き出していく。そこに関わる子どもに障害があれば、それに合った参加の仕方を柔軟に考えることになる。

しかし、日本で実際に指導要領に先行して試験的に行われている「総合学習」は、学習のテーマを文部省が決めており、カリキュラム権を手放そうとはしていない。それに、決して文部省は共学を進めようとはしていない。また、アメリカの実際の授業では子どもたちの年齢が大きくなるにつれて、一緒にやっていくことが難しくなると、ジェーンさんが報告していた。とはいえ、このデューイの方法は大いに興味を引く。今回のプログラムではそこまでいく時間がなかったが、是非アメリカでの実践を調べたいものである。