千田好夫の書評勝手

陰の主役 ジョン・デューイ
―2000年交換プログラムの報告―

デューイの「学校と社会」を読んだ。中学生の頃この人の「論理学」に挑戦したがちんぷんかんぷんだった。私の理解力のなさは35年たってもちっとも変わらないが、これは違う。平明でわかりやすく、具体的だ。電車の中で読んでそれがわかって嬉しくて、降りてから思わず冒頭にあるデューイの言葉を友人に吹聴した。「(教育では)もっとも賢明な親がわが子に望むものをこそ、社会はすべての子どもたちに望まねばならない」そう言ったら、今更何を言うんだという顔をされてしまった。確かに当たり前のことのように思える。しかし、本当に今更だろうか。子どもたちを成績や素行、障害で分け隔てする学校が、そういう認識を持っているとは思えない。

このデューイの言葉は、個人的視野と社会的見地とが統一されなければならない、ということを意味している。この視点は本書のあらゆるところで貫徹される。たとえば「教養ということが、民主主義の合い言葉となる」これは当たり前とは言えない。個人的な教養は、日本の教育のあり方ではどれだけの成績を身につけたのかと同義であり、そのまま社会的地位の上下にほぼ比例するから、教養と民主主義は相反するように思える。デューイの時代、いまからちょうど100年前のアメリカでは、今日の日本よりもっと極端だった。ハイスクールに行く子どもの割合は実に5%、多くの子どもたちが小学校を終えればそのまま社会で働いた。逆にそれだからこそ、デューイの考えでは、学者であろうが、商店経営者であろうが、教師、工場労働者、農民であろうが、自分のしている仕事が、自然と社会の歴史とにいかに関わっているのか、人類の利益にいかに結びついているのか、という想像力を養うことが教養なのであった。

これに対して、日本では「職業に貴賤はない」という言い方がされる。しかし、それは「やっている仕事で人を差別をしてはいけない」という意味合いしかなく、現実に格差があり差別意識が厳然として存在することを問わない。「差別をしてはいけない」という否定的言い方はよくされるけれど、果たして差別がないということはどういうことなのかが考えられたことはあるのだろうか。今年の障害者国際交換プログラムのテーマは、教育であった。「あたらしい共学のあり方を求めて」というタイトルは魅力的だったが、これもその中味はどうか。障害のあるなしで分けない、という否定的言い方まではできるけれど、ではこの子についてはどうかという具体的課題には答えきれない。

これは主催している我々フットルースの不安であった。9月16日にプレイベントとして公開学習会を持った。参加人数こそ40名ほどと少なかったが、関心は高く、遠方から駆けつけた人や、来れないけれど資料がほしいという問い合わせが多かった。この学習会の狙いは、アメリカのインクルージョン教育の実際を聞く前に日本側の問題点を整理することだった。確かに、障害児とその親、そして教師たちが学校現場で抱えている問題点は数々明らかになったが、その数が多すぎて整理がつかなかったこと、かつ既におなじみの問題であり解決策に結びつかない「泣き言」という印象を持った人もいた。

ところが実際に11月18・19日の本番になるとその印象ががらりと変わった。特に、19日のグエン・マイヤーさんが、インテグレーションとインクルージョンの違いを説明したときだった。ここで我々は、デューイの面影に出会うことになる。

―2000年交換プログラムの報告― (2)へ続く)