千田好夫の書評勝手

子どもの犯罪と新たな公共性

最近、子どもの犯罪が多く、しかも凶悪化しているといわれている。特に17才を中心とする年代が危ないという。アメリカや日本だけでなく、先日はスペインでも少年が両親と妹を日本刀で斬り殺した事件や、それにあこがれた少女たちが同級生を殺し「そういう経験をしたかった」と供述しているという事件が報道されていた。子どもが話題になるのは、子どもは一方で保護される立場でありながら、大人顔負けの犯罪を犯したり、大人の組織に利用されたりするからである。

子どもが未発達の人間として刑事責任を減免されるというだけなら、年齢区分は様々だが制度としては古代からあった。日本の律令にもその規定があるという。しかし、人権を認められながら未完成の人格として保護育成の対象とされるようになったのは、そう古いことではない。1813年ドイツで保護施設、1850年フランスで懲治コロニー、1852年にはイギリスで矯正院ができた。1899年にはアメリカ・イリノイ州で最初の少年裁判所ができた。これらの施設や裁判所は、犯罪を犯した少年だけではなく、親から放置された子どもの扶助も管轄していた。

しかし、本書によれば、この子どもへの保護拘束の実態は、今日の水準から見れば限りなく刑務所に近いものであったにもかかわらず、常に二つの立場から攻撃されてきた。一つは、それが刑法の応報的概念に反し刑法秩序に打撃を与えるものだという主張、もう一つは、それが「社会復帰」の名の下に子どもの人権を抑圧しているという主張である。

ここから考えると、最近の事件をきっかけにしてこの議論が日本で再燃しているが、大きく聞こえてくるのは前者、つまり少年法を改悪して対象年齢を引き下げろとか、検察官を関与させろとかの主張である。それでは反対論のように弁護士も入れればいいかというと、「有罪」ともなれば「犯罪者」「非行者」としてレッテルを貼ることに道を開きかねない。

大まかに言えば、二つの主張は立場は違うけれども、少年法をはじめとする子どもへの施策が、子どもの犯罪防止に役に立っていないことでは一致している。それでは、なぜ子どもによる犯罪が起こるのか、その背景には何があるのか、どうすればそのような事態を未然に防げるのかという検討を、まずするべきではないのか。厳罰か人権かという対立にしてしまうと、国家が親代わりとして子どもを保護拘束するということの正当性が問われないことになってしまう。だからといって、本書のように少年裁判所を、マイノリティの子どもを資本主義に対してなじませるための道具だといってすむことでもない。

それではどうするのか。子どもの刑事責任をどう考えるかということよりも、このような事態に対して我々自身の解決能力をどうつけていくかが課題なのだと思う。しかし、そのような我々の力は今のところ存在しない。まるで、養護学校を拒否したとき、それに代わる「共に生き学ぶ地域の学校」など、どこにも存在しないのと似ている。それをどう呼ぶかは別として、我々の自治の力=「共に生きる地域の新たな公共性」を子どもと共につくり、国家に対置していかなければならないのだと思う。