千田好夫の書評勝手

二都(ニャント)物語

ごそごそと布団に入ってくるやつがいる。朝ご飯をくれと、なめたりひっかいたりしたが、いっこうにこちらが起きないので自分も寝てしまおうというつもり。ところがそれが無理矢理なものだから、こちらが目を覚ましてしまう。するとさっさとベットから飛びおりて台所へ行こうと誘う。時計をみると6時半、目覚まし時計よりあてになる。猫が役に立つとは意外だ。

ミータロウが来て2年半。子供の頃に猫を飼っていたが、それから実に30年ぶりに同居することになった。肌寒い秋の夕暮れ、駐車場の車のタイヤの上でふるえていた。近づくとしっぽをたてて足にからみついてきた。その時推定生後3ヶ月と獣医さんが言っていた。初めは性別がわからずミーコと呼んでいたが、股の間に隠していたものが見つかってミータロウと改名した。

さて、猫は無為徒食の徒・自分勝手で独立心旺盛と東京では評判だが、ニューヨークではどうだろう。著者は「動物愛護基金」の会長を永年勤めている作家だ。鯨やアザラシの商業的な虐殺を妨害したり射殺されかけた野生のロバを救出したりと、筋金入りの動物虐待反対活動家で、鯨のベーコンを食う私などは糾弾ものだ。

クリスマスの夜、ビルとビルの間の鉄格子で仕切られた隙間から薄汚れてやせこけた猫を救い出した著者は、つい情が移ってしまった。もらいたいという希望者を断り、掟破りに近いかたちで自分のマンションで飼うことにした。洗ってやると思いがけなく真っ白で、ポーラベア(白熊の意)と名付けた。

ここまでは私と同じような経過だが、変わっているのはここからだ。いかに動物愛護基金の会長とはいえ、ポーラベアにはそんなことはちっとも関係ない。気に入らないことははっきりとしっぽで拒絶する。著者は無謀にも猫を「訓練」しようとした。毛糸玉を猫の近くに投げ、「取りに行け」と真剣に命令した。それに対してポーラベアはすわったまま玉を見てから厳しい顔で著者を見つめ、しっぽで1度ならず2度もぴしゃりと床をたたいたのだ。さらに長旅への同行、ハーネスをつけた「散歩」、救出されたさまざまな動物との一時同居など、著者の努力が続くがことごとく著者の思い通りにはならない。

だからこれは猫「愛護」物語ではないけれど、決して失敗物語でもない。猫は、言うことは確かにまっすぐにきかないにしろ、愛情と友情の表現の仕方を考えさせてくれる。膝に乗ったりなめたりということだけではなく、意地の張り合いや、まるでお互いに気付かないようにさりげなく近くにいることも、実は意味のあることなのだということがわかってくる。

そう言えば、「動物愛護基金」の「愛護」という日本語が怪しい。英語では単に「動物のための基金」であって、forを「愛護」としてしまうのは動物からすればかなり一方的に違いない。著者はポーラベアを「訓練」しようとしたとき、「なにやら最新の教育理論を実践しているようで、いい気分になった」と、「訓練」がポーラベアのためでなく、自分の気分のためであったことを率直に認めている。「愛護」という考えからは考えにくい率直さだ。

わがミータロウは、これを書いている間にもキーボードの上に乗りかかったりして、うるさいことこの上ない。私はミータロウを「訓練」しようとしたことはないけれど、著者のような率直さを経る段階を踏んでいないだけ「愛護」に近いのかもしれない。