千田好夫の書評勝手

たまには柔らかいパンを

この書評欄を続けてもうかなりになる。書評というより、本にかこつけて自分の考えをランダムに書いているのだけれど、思いがけない場所で「読んでますよ」とか「楽しみにしている」と言われると、つい嬉しくなってしまう。もちろん、いい評価ばかりというのではないが、やりとりがあるのは励みになる。

それに関連して、最近二つの出来事があった。

一つは、95年に書いた「与える」という絵本について、ある高校の授業の中で話すという経験をしたことだ。一方的にリンゴの木が少年に与え続ける話で、木は最後に切り株だけになってしまう。人間関係のとらえ方をどう考えるかという話のつもりだったが、生徒諸君の反応からは、無反応という反応を含めて、話をまっすぐに伝えることの難しさを教えられた。十分な準備をして行かなかったせいもあるけれど、イソップの寓話などを使ったたとえ話が、必ずしもやさしくないということだ。

それでは、具体的なことが伝わるかというとこれも難しい。去年の9月号で、康治君の「あの転校要求運動に係わった一人として、痛恨の思いにかられる。彼の死に対して、私たち一人ひとりに責任があるのだ」と私は書いた。これは自己批判だが、それもまっすぐには伝わらない。「君だって当事者ではないか。評論家になるな」と批判してきた人がいた。かつて私は足立に住んでいて、金井家とは家族同然のつきあいだったので、そう言われても仕方ない面がある。だが、私は突然そうしてはいられない状況に陥り、断腸の思いで足立を去らざるをえなかった。ちょうど、康治君の中学入学が実現する直前で、毎日殴られながら学校生活を送った私の体験から、彼の学校生活も大変なことが予想され、バックアップ体制をとる必要があった。あったけれども、「当事者」からはずれた私が係わることはできなかった。しかし、過ぎたことを取り返すことはできない。普通学級に入るだけではない運動をこれからつくるしかない。それを含めての自己批判のつもりだった。

短い文章のなかで全てを書ききることは難しいし、皆さんすばらしい人だと乙武流にやるわけにいかないとすれば、自分の姿勢と力量を精一杯盛りきることしかない。まだまだ「修行」が足りない……そう思いながら、好きなスピカのパンを食べていると、スピカ通信「Spica No.18」の『パンの話あれ.これ.』という記事に目が止まった。

スピカは10年お店をやっているが、10年たつと、パンを作る方も食べる方も変わってくる。特に歳をとってくると固いパンが好きなだけにつらい。スピカは注文に応じてパンの発送もしているが、そのうちのお一人がそのような手紙を寄せられた。発送は確かに便利だが、食べる人への想像力に欠けてきたことを率直に反省し、スピカは新しい柔らかいパンを開発した。その名も「ライト」。

偶然にもその時、先日スピカで勧められて買った「ライト」を食べていた。そうかこれはそうしてできたパンだったのか。天然酵母と全粒粉やライ麦を使ったスピカのパンは固い。けれど種類が多く味わいがあって、よく噛んでいると少量でお腹がいっぱいになる。でもたまには柔らかいパンも食べたい、と私も思っていた。お便りを出された方と文字通り柔軟に応えられたスピカに感謝。私もがんばりたい。