2004年 無着邦彦介助者会議報告

2004.12 呼称に対する一考察

これまであまり触れてこなかったテーマなのですが、最近あれこれと考える機会があって今回取り上げてみました。

柿のたねを作った時のメンバーはみんな邦彦さんより年上で、一番若かった私が邦彦さんと同世代。故に紙面上では邦彦さんと敬称を使っていますが普段はみんな「邦彦」とか「邦ちゃん」と呼んでいるのがもっぱらです。最近では介助者のほとんどが邦彦さんより年下になり、そんな彼らは「邦彦さん」「無着さん」なのですが、昔からのメンバーはあんまり「さん」づけしないよなぁ。だから柿のたねに初めて来る人の中には呼び捨てにしているのを見て不思議に思ったりちょっと違うんじゃない?と感じることも多いのではないかと思います。 邦彦さんも40歳を過ぎていまではりっぱな?中年オヤジ。そんな彼に対して「邦ちゃん」はないんじゃないという声も聞こえてきそう。

邦彦さんはかつて私のことを「チェリー」と呼んでいました。それがある時を境に「さくばらくん」変わりました。第一期柿の木ハウスの住人だった私は二軒目に移り住む時に邦彦さんと居を別にすることにしたのですが、当時の介助体制と柿のたねの専従としての付き合い、さらに柿の木ハウスの住人という、邦彦さんとの密度の濃い関係はお互いによくないという判断と、私自身の私生活の確保という両面がその理由でした。その当時は、邦彦を捨てて家庭を取ったからだと揶揄する人間もいて、私自身もどこかもの寂しさを感じていました。確かに邦彦さんにとってこれまでと変わる大きな場面だったことは間違いなく、少なからず「お前なんだよ、出ていきやがって」という気持ちもあったのだろうと思います。呼称に込められた邦彦さんとの新たな関係がそこにはありました。けれどそのことが私と彼の決定的な溝になったかといえば、むしろその逆にお互いの距離感を計り直すいい機会になったのではないかと思います。

誰でも知り合って初めのうちは相手に対し呼び捨てにしたりせず、敬称をつけて話をします。それが親しくなるにつれ名前を呼び合ったり愛称に変わっていくのだと思います。お互いの関係を計りながらその場面に応じて呼称は変化し、またときには感情表現の手段としても使われます。

だから邦彦さんとの変わらぬ関係の中では蔑称でない限り「邦彦」や「邦ちゃん」もありなのではないかと思います。一般的な関係の中で愛称を呼び合うことはある訳ですから、成人した障害者だけが必ず「さん」づけされて呼ばれるのもちょっと違う気がするのです。もちろん場面の使い分けはあるので、けじめが必要なときには逆にきちんと敬称をつけることも大切だと思います。

邦彦さんは私のことを呼ぶ時いまではすっかり「さくばらくん」ですが、本気で求めてくる時やふっと気を許した時「チェリー」と呼びます。「さくばらくん」の言下にある『チェリー』を感じながら、お互いにいくつになってもそんな飾らない関係でいられたらいいよなと考える今日この頃です。

(櫻原雅人)

2004.11 情報の伝え方、判断の仕方

前回「サポートの本質とは何か」というテーマで知的障害者の自己決定の尊重と失敗しないためにどうすればいいかということについて書いた。その中で先回りするのではなく、いっしょに考え本人に理解できるように因果関係を伝えていくことの大切さについてふれたのだが、その後邦彦さんが通う福祉工房で個別外出(職員と本人の2人で外出するプログラム)を計画する際、まさにその部分を誤ったがために起きた出来事があった。

当初は銀座線に乗って浅草に行くという邦彦さんにとってはおなじみの、でも工房としては初めての企画だったのだが、本人の状態が不安定なのではないかという工房側の判断で、急遽行き先が変更になった。それも事前に相談を受けた時に外出の際の留意点や代替案を伝えていたのにも関わらず、通常のプログラムでよく出掛ける区内の公園へ散歩に行くというものだった。

その報告を受けた時なんて子どもだましな対応だろうかと思い不安になった。工房では邦彦さんが受け入れてくれ、おだやかに過したと言っていたが、柿のたねに戻ってくるなり「たいがいにしろ!」から始まり、やけにテンションが高く、本人に翌日の個別外出の話を振っても答えてくれないので、あえてそれ以上話さなかった。その後落ち着き始めていたのでそのまま当日の介助者に引き継いだのだが、その後しばらくして工房から行き先変更の連絡があった。そして邦彦さんの怒りは帰宅後にいっきに噴出した。

あきらかに原因がそこにあると推測できたので翌日工房に電話を入れ、今回の経過説明と抗議のための話し合いの場を設定した。そのことを邦彦さんに話すとまんざらでもない笑顔を浮かべていたので、推測は確信へと変わった。

今回の件に関してはトラブルを避けたいという工房側の思いだけが先行し、本人への説明が不充分だったことや急な予定変更という自閉症の人にとって苦手な部分に対する配慮が足りなかったように思う。結局当日は雨が降ったこともあってどこにも出掛けず工房内で一日過したのだが、天候の変化なども考慮しながらしきり直すという判断もあったのではないかとも伝えた。

結果的にはトラブルを避けるための判断がかえって大きなトラブルを招き、本人にとってつらい思いをした事実だけが残った。また本来の原因である工房内ではなく別の場面で現出するという点で、知的障害者の支援の難しさもあらためて考えさせられた。本人の全体像は切り取られた生活の一部だけを支援する介助者には見えにくく、その場面の言動だけでは不満やストレスの原因はなかなかつかめない。けれど往々にして当事者はその現象面だけを捉えられがちになり、そこでの評価が固定化していく。工房の職員や介助者各々が当事者の生活全体をイメージしてトータルサポートを考え、またそれをコーディネートしていかなければ本人にとっての充分な支援は得られない。その体制をどう作っていくかが今後の課題だと思う。

(櫻原雅人)

2004.8 サポートの本質とは何か

知的障害をもつ人のホームヘルパーの仕事は、本人の行動をサポートするためのアドバイスを必要とするという点で他の障害をもつケースとの違いがあります。実際にはヘルパーが家事を代行することが多いのですが、場面場面においては本人が自分でしたいという思いを尊重し、それを見守りながら適宜助言をすることを求められます。

この適宜という部分が現実的には難しく、つい過剰に指示をしてしまったり、失敗を事前に防ぐような行為になってしまうことがあります。失敗しないのはよいことではないかと考えることもできますが、失敗の中から学んでいくこともあり、またそうした経験を奪われてきた当事者にとって失敗をすることで経験を重ね、生活を実感していくという側面もあるのです。

無論本人とヘルパーの関係の中で、次から失敗しないためにどうすればいいかということについていっしょに考えていく作業も大切です。それは本人に理解できるように因果関係を伝えていくことでもあり、時にはヘルパーの技術的な工夫が問われることもあります。

邦彦さんの場合も家事全般をヘルパーが代行することが多いのですが、以前はヘルパーが買物を済ましていたのにいまや自分で支払うようになり、最近は帰宅後家のカギを開けるのも自分でするようになりました。それはほんのちょっとしたことがキッカケで変わっていくのですが、ヘルパーが気がつかなかったり見落としてしまうことが多いのではないかと思います。本人がやらないのでできないと思いこんでしまう、そこに盲点があるようです。

一方で本人ができるけれどやりたくない、やりたがらないということもあります。これもヘルパーの悩みのひとつです。邦彦さんは、自分のために何かをしてくれる、それを求めることで相手との関係をはかるというところがあり、状況によってはそれが強いこだわりとなって現われることがよくあります。例えば自分が聞きたいCDのスタートボタンを押してもらうことにこだわる。もちろんその程度のことは自分でできるはずなのに、自分ではけしてやろうとしません。ヘルパーもその点は理解しているので要求に応えます。ところが食事の際に食べこぼしたものを掃除するような場面で、ヘルパーは「自分でこぼしたのだから自分で片付けて」と言い、邦彦さんはそれに直に対応する時とそうでない時があります。ここでひとつの分岐点ができます。自分の行動に責任をもってもらうために、断固として対応する。または受け入れてほしいのだと思い、ヘルパーが代行する。そんな時あなたならどうしますか?

もちろんケースバイケースで、常に一定の答えがある訳ではありませんが、とかくヘルパーの心情に左右されることが多く、試されてるなぁと感じます。ただ基本はヘルパー自身がこだわりすぎないことではないかと思います。でないとそれはアドバイスの域を越えてしまいます。未だ発展途上のヘルパーはおおいに悩む日々の連続です。

(櫻原雅人)

2004.6 生活力ってなんだ?邦彦さん流世渡りのすべ

生活力ってなんだ?なんていきなり書き出してみたけれど、実のところなんだろう。働くことによって所得を得る経済的な部分もある。でも自分であれこれ決めて行動することが大きな意味を持つのではないだろうか。

以前、買物をする時に小銭も使えるようになったというエピソードをこのページで紹介したことがあったけれど、それまでのように千円札を出して買う、足りなければもう1枚、というのも生活力だよなと思う。お金の計算ができなくても日常的な物が大体どのくらいするものかということがなんとなく解っていれば、買物はできてしまうもの。もちろん小銭が使えるにこしたことはないし、でもそれだって日常的に自分でお財布を持って行き、買物を繰り返すうちに自然と身についてきた力なのだと思う。

「お金の計算ができないとだまされることがある、世の中いい人ばかりではないのだから」などという話を時々耳にするけれど、実際にそんな場面に出くわすことってそうそうないし、邦彦さんに関していえば買物の際は側にヘルパーがついているからほとんどありえない。そのヘルパーがちょろまかしちゃうなんていう、ちょっとぞっとする話もあるけれど、毎日細かく家計簿をつけてそれを本人や他のヘルパーにも公開するなどの対応で防ぐことはできる。だいたい自分で買物をするようになってから、前みたいにお財布を簡単に人に預けるなんてことをしなくなったものな。私が家計簿をつけるのに残金を確認するからお財布を貸してというと、自分で開けると言って必ずチャックを開いてから渡してくれる。信用されてないなぁ(笑)。まぁ、でもすごく当たり前のことだし、お金に対する執着がでてきたのはいいことかな。それこそ邦彦さんなりに自己防衛してると思う。

そんな邦彦さんだけど、場面場面の使い分けがとってもはっきりしていて、柿のたねや柿の木ハウスでの生活と福祉工房や実家では「カオ」が違う。福祉工房のメンバーや職員と散歩に出掛けている時に、偶然出くわしたりしても大抵無視される。日常的にいつも誰かが側にいる生活をしていたらどこかで切りかえることも必要だと思う。誰だって職場の顔、家庭での顔、いろいろあると思うもの。もうちょっと愛想があってもいいと思われるかもしれないけれど、ただ無視してるだけではないんです。

ある時突然「○○さんどこいる?」なんて尋ねられて、どうしたのかなと思っていると、後日「この前無着さんに会ったよ」なんてその○○さんから言われたりする。その時はつれない素振りかもしれないけれど、しっかりと本人の中では意識してるし、いろんな人との関係が位置付いているようです。

だから、街で邦彦さんに会ったら声をかけてあげてください。でも無視されてもあまり気にせず自然に接してください。それも邦彦さんなりのコンディションの整え方、処世術なのです。

(櫻原雅人)

2004.5 参加の条件、つきあわされてるのはどっち?

ここのところ本当に浅草づいてる邦彦さん。イベントがない週末はほとんどと言っていいいくらいよく出掛けます。邦彦さんの好きな東横線や銀座線に乗り、車内ではほんとうに嬉しそうに身体を前後に揺らしながら笑顔。いざ到着すると食事と散歩。ランチは大抵松屋のカレーセット。「なにも浅草まで来て、松屋のカレー食べなくてもいいじゃない?」と介助者は思うのですが、結構こだわっています。♪なんでだ、何でだろ〜♪などと考えてみるに、要因の一つとしてあげられるのは券売機。自分でお金を入れると券が出てきて、それを渡すとカレーが出てくる。その行為による充実感が実はカレーよりも魅力的なのかもしれない。自販機でサイダーを買う時も、お金を入れて「ガラガラガッシャン!」と出てきた時にうれしそうな顔するものな。お気に入りの電車に乗って自分があれこれできるガイヘル付のお出かけが定着してから、彼の日常生活はわりと安定しています。

そこで私はまたまた考えてみる。柿のたねでもあれこれとイベントをしてきたけれど、何が違うんだろう。集団行動ではいろいろと制約があるので、自分の思い通りにいかない。確かにそれはある。自閉症の人は集団行動が苦手なケースが多い。うん、それもなくもない。たくさんの人がいると必ずしも自分が主役になれない。わがままなやっちゃなぁ。じゃあ参加しなけりゃいいじゃん。……あれっ、ちょっと待てよ。そうすると全部邦彦さんのせい?そういえば金曜倶楽部にしろ、他のイベントにしろ、邦彦さんはほとんど皆勤だよな。でも毎回ほんとに楽しいの?

障害者も健常者もみんながいっしょ、いろんな人が集まる場を目指して柿のたねは活動してきたし、イベントも企画してきたけれど、やっぱり健常者のペースに障害者が合わせるかたちになっているんじゃないだろうか。健常者にとって集う場がつまらないと思えば参加しない、他の場に行ってみるという選択肢もあるけれど、知的障害者の場合は圧倒的に他の場がない。今日はつまらないなと感じても、そこしか行くところがないから仕方がないと思っているのかもしれない。実際私たちも邦彦さんに対して、とにかく参加しようよと促してきたけれど、参加しないという選択肢はまわりの都合で提供してこれなかった。障害者、健常者にかかわらず、集団行動になれば一定の制約を受けるのは仕方がないことだけど、付き合わされてきたのはどっちなの?

なかなか難しい問題だけれど、「いっしょにいる意味」について真剣に考えてみることは大切だと思う。やっぱりみんなが楽しめるのがいいよね。そのためにはもっといろんな場や機会が必要だし、知的障害をもつ当事者にとって楽しめる企画やサポートのあり方をもう一度考え直さなくてはとも思う。とことん彼らのペースに合わせてイベントを組むのもひとつの案かな。それはそれで想像もつかないことが起こりそうで楽しいかもしれません。

(櫻原雅人)

2004.4 柿の木ハウスの新住人、その名はミッチー!

3月の14日に柿の木柿の木ハウスに引越しをすることに決まり、無着さんはどういう対応をするのかと少し心配なところがありました。引越しをする前、無着さんに「今度、無着さんの隣の部屋に引越しをするからね〜」という話をして、なにか納得しているようなしていないような感じでした。いざ14日の日を迎えてみると、いろんな方に引越しを手伝っていたいただき、無着さんにも手伝っていただき、スムーズに引越しを終えることができました。手伝ってくださった方、本当にありがとうございました。

住人としての自分と介助に入るときの自分の区別をしっかりしようと決意し、柿の木ハウスの新生活がスタートしました。約2週間がすぎ、自分が思っていたより、無着さんは住人としての自分と、介助に入るときの自分の区別をつけていました。むしろ自分のほうが、住人としての顔と介助に入るときの顔が同じようなき気がして邦彦さんの態度をみて自分のほうがまだまだと感じる今日この頃です。

柿の木ハウスに住むということで、一人ではなく、もちろん無着さんや金井さんや長沖さんがいらっしゃるし、一人暮らしをしていながら共同生活しているような感じがして、例えば、台所やお風呂、トイレを使うときは、周りに迷惑をかけないように「大人の自覚」をもついい機会だなと思っています。と、いいながら朝、大音量でCDをかけ迷惑をかけたり、夜遅く帰ったときに無着さんを起こしてしまったりして、迷惑をかけっぱなしではあるのですが…。

部屋を片付けていたら今は懐かしい「大黒摩季」のCDが見つかり、部屋で一人聞いていました。あ、そういえば無着さんはこのCD好きかな〜と思い、プレゼントしました。

結果、CDを気に入ってくれて今では、毎日のように聞いてくれています。ほんとうれしいです。自分は音楽を聞くのが好きなので、いい曲があったらどんどん無着さんにも聞いて欲しいと思いました。

最近はなんやかんやで、なかなか夕飯を無着さんと食べることができず、外で食べることが多く、柿の木ハウスでは無着さんが寝てから食べることもあり、時間が合えば無着さんと夕飯を食べたいと思います。

話はかわりますが、最近介助に入るとき夕飯のメニューがマンネリ化してきているので、少しは変えないとと思い、料理の本を買い少しずつレパートリーを増やせたらと思います。最近の若者は〜、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、自分は揚げ物もできなし、魚をさばくこともできなし、というかやったことがありません。(さばくとはいわないけど、イカのみ調理可)野菜を上手に切れなし、やっと味噌汁を「出しパック」を使ってつくるくらいはできるようになりました。今年は気合をいれて、次回通信に書くときは、得意なメニューを書きたいと思います。気長に待ってやってください。

(三谷知裕)

2004.3 知ることの大切さと介助者の柔軟性について

最近柔らかめの話が続いていたので、今回はちょっと襟を正してまじめなお話。

邦彦さんの生活を支える介助者同士が毎月一回集まって話し合いをしているこのページのメインタイトル介助者会議。

日常的な引継ぎ事項は介助者ノートやメール連絡などをおこない、残っている食材の確認、食欲や睡眠など健康に関する情報などについて共有化しているが、普段介助者同士は顔を合わせて話す機会があまりない。そこで日常生活の事務的な確認作業の他に、それぞれが介助者として関わる時の困ったことや気になったこと、どういう反応があったのか、どういった対応をしたのかということについてみんなで考える貴重な場となっている。

邦彦さんの様々なこだわりへの対応について、例えばある介助者は昨日洗濯したから今日はしないよと話して一旦は納得するものの、どうしてもしたくて夜中に起きて洗濯機を回してしまう。どうしたらやめてもらえるのかと悩んでいると、他の介助者はその日着ていたものだけでもいいからと毎回やっている。結果夜中に回ることはない。ある時別の介助者が洗濯物を邦彦さんに干してもらったところめちゃくちゃな干し方をしていたので、以来ずっと自分がやっていたが、話を聞いたら最近は自分で干しているというので、試しに頼んで側で見ていたらきちんと干してくれた。いつのまにできるようになったの?

ほんのちょっとしたことが、行き違いや先入観につながって邦彦さんとの関係性を狭めてしまう。そんな時他の介助者の話を聞くことで、自身を客観的に捉え返して解決することも多い。なにか行動を制止しなければならない場面でも、なぜこだわるのか、どうやって伝えるかを懸命に考えることで、介助者自身のスキルアップになり邦彦さん自身の生活の安定へとつながっていく。邦彦さんの行動が介助者との関係の中で現出してくるのだとしたら、その点でつきあいの長い私は猛省すべきかもしれない。

もちろんあの手この手を尽くしてもなかなか解決しないこともある。それに対して介助者がさらに頭で汗をかくことも大切だし、その行動を邦彦さん自身のこだわりとして認めていくことも必要だと思う。そこの折り合いはとてもむずかしい。介助者の受けとめ方によってはこだわりが固定化するかもしれないし、邦彦さんに対する評価を安易に障害と結びつけることになりかねない。一方で社会の持つ価値観に照らし合せ矯正しようとすることが、障害そのものを否定することにもなってしまう。

お互いにある姿を認め、ともに生きていくためには、今の社会は障害に対しての理解が不充分だ。それは医療や学術的なものだけではなく、どれだけ出会い、相手に対し向き合うことができるかなのだと思う。人との関係は知りあうことからしか始まらない。そのためのきっかけとなれるよう今後も介助者会議報告はいろんなテーマについて発信し続けていきたいと思う。

(櫻原雅人)

2004.1 コーディネートはこーでねーと???

いきなりオヤジギャグでスタートしてごめんなさい。前回邦彦さんのこだわりについていくつかのエピソードを紹介しましたが、今回はぐっと身近に、洋服に関するこだわりについて。

いつも着たきり雀で、センスのかけらもないといわれる私がこんな話をするのは大変恐縮なのですが、邦彦さんはお洒落について一家言持っていて、結構こだわりがあります。

まず目を引くのは着替えの回数。家に帰ってから最低2回はジャージやトレーナーを着替えます。まず帰った時に1回。これは当たり前なのですが、その後シャワーを浴びたり風呂に入った後にまた着替える。さっき着替えたばかりだからそれでいいんじゃないと言ってもタンスから別の洋服を引っ張り出してきます。これは邦彦さんの好きな洗濯をしたいために汚れ物(そんなに汚れてないけど)を増やすという要素も多分にあるのですが。下着は本当にまめに交換しています。

外出の時はやはり自分の趣味があってお気に入りの洋服を着たいようです。でもあんまり毎日同じ物を着ているのはどうかと思うので今日はこちらにしたらと声をかけると渋々着替え、さあ出掛けようかと思ってふとみると、最初の服を着ていたりする。あらいつの間にと思うけれど、その時はもう時間がなくて仕方なくそのまま出掛けていくこともしばしば。また服の着方にもいろんなこだわりがあります。

そんな時、考えるのはいったいどこまで話をすればいいかということです。周囲から見たらちょっと違うなと思っても、それが本人の趣味だったり、邦彦さんなりのお洒落だとすれば私たちがとやかく言うことじゃないし、でもその姿はあまりいっしょに歩きたくないなぁと思うこともある。例えば最近はずっと定着している外出時のジーンズも以前はジャージ姿でした。家でくつろぐ時や運動する時はいいけれど、銀座や渋谷に出掛ける時はやっぱりなぁ。まぁ大きなお世話だと思うのだけれど。

でもそのジャージ姿も元々は昼間通っている福祉工房から始まったようで、いつからかそれが当たり前になっていた。それって本当に本人が選択した結果なの?

ジーンズを履きはじめたきっかけは去年のお餅つき会から。それ以前も時々履くことはあったけれど、あんまり定着しなかった。みんなにかっこいいよ、似合ってるよと言われるうちにその気になってきたようです。最近はすっかりお気に入りのようす。やっぱり周囲を意識しながら生活することも大事なのかな。私も邦彦さんから「みっともないからいっしょに歩きたくない」と突っ込まれないようにしないといけないな。

(チェリー)