1999年11月の柿のたねニュース

公会堂バザーにご協力ありがとうございました

売上は690,000円になりました

当日は晴天に恵まれ、大勢の方に来ていただきありがとうございました。終わりの時間を30分延長したほどでした。

毎回、準備に多くの人の手助けもあり、当日のお手伝いに来て頂いた方々もありがとうございました。また提供品を出していただいた企業の協力に感謝しています。

当日は区民センターでおこなわれた生活展と重なり予定していた人が来れなかった事もあり、昼時の休憩があまり取れず、とても疲れた事と思います。

今回は値付けがちょっぴり高めだったと思いますが、あまりにも安くしても、提供して下さった方々に申し訳ないのと、安目にして買っていただいてもすぐに飽きてゴミになってしまってはなにもなりません。

来てくれた方の中には「100円ショップの方がまだましだ」との声もありましたが、物を大事に使ってほしいし、家での不用品を使っていただける人に安く譲るのもリサイクルバザーです。

来年4月のバザーに向けて、今から準備もしたいところですが、毎月の市の作業もあり、なかなかスムーズにいきません。

皆さん、4月16日に公会堂であいましょう。

まひるのほし第3部上映中止の顛末記

10月30日、まひるのほしの上映会当日、スタッフ8時30分集合、会場のディスプレイ、各作業所、団体の作品、「工房絵」のポストカードなどの販売準備、武田真希さんの絵の展示など開演の準備に追われながら9時30分受付開始。朝から多くの人が足を運んで下さり、終演後のロビーは作品を買い求める人でごった返した。「いい映画だった」と多くの方々から感想として聞くことが出来た。

午前の部120名、午後の部184名、夜の部146名総人数450名の観客で、上映会はまずは成功といっていいはずだった。その後の打ち上げは成功の美酒に酔い、次週の週末は錦繍の秋、奥日光の湯治場に身を浸す予定であった。あの、いまいましい事件が起こらなければ。

それは、もう一度この映画を観ておきたいと座席に身を沈めていた時だった。夜の部の映写が始まって3分の一くらい経った頃映写画面が突如止まった。フィルム交換にしては様子がおかしい。映写室に飛びこむと技師達が青くなって機械をいじっている。故障だ。モーターを動かすベルトが切れてなおかつスペアーが見当たらない。怒鳴りつけたい気持ちを押さえながら、観客に説明し待つ事25分、応急処置で動き出したがいつアウトになるか判らない。万が一の時の対応を協議する。もう一度止まった時は中止、払い戻しと決め、祈るような気持ちで画面を見つめる。半ば過ぎた頃、スクリーンの底にわずかな映像を残しながらそれは止まった。万事休す。怒りでふるえる体を整えながら舞台に立ち中止を告げた。その後の経過は前号のニュースで記載した通りだが、館長、厚生課長との深夜に亘る交渉はこうむった損害の補償と再度の上映会の要求だった。

その後、区との交渉を持つ準備を続ける日々の中で、私は混乱からなかなか立ちあがれなかった。それは、不測の事態によるパニックということよりエネルギーの基点の喪失だった。この6カ月足らずの上映会に向けた準備の日々は多くのことを私に与えた。そしてそれは当然の如く多大のエネルギーを要するものであった。気負いと、不安に揺れ動きながら不思議に動かなかった上映会の実現への想いは10月30日に収斂され、その結果に昇華されるはずであった。矢を放つ瞬間に的を外されたような虚脱感に襲われたのだ。

澄んだ太陽光線に、照り返されたように輝く木々に林試の森は彩られていた。娘が森を何周もする間に、私はゆっくり歩きながら自分にとってこの上映会はなんだったのか思い起こしていた。私にとっての基点、それは、私はやはりこの映画はいい映画だと思ったのだ。彼らの作品はいいと思ったのだ。そして、実によけいなお世話なことに共感を人に求めてきたのだ。発信に応えてくれた人たちに届け終えねばならない。そのための上映会を開かねばならない。的を外されてくやしいのは私だけではないのだ。当日、中止を告げる舞台から見えた146人の顔、顔。その中には、上映に直接協力してくれ、友人や家族を誘ってきてくれた人たちの困ったような顔があらためて浮かんできた。あたりまえすぎる結論だった。

区は18日に事故処理委員会を開催し、上映会に対する補償の検討した。私たちの第1の要求である区の主催で上映会は困難だという結論だった。理由は区の主催で開催したものではないからだというものだ。明らかに区の管理ミスの結果起こった中止という事態に、この結論はおおいに不満であったが再上映会を開催するためには、このことだけにとどまっている訳にはいかなかった。私たちは、自分たちで無料の上映会を開催する事を決め、区との交渉に入った。その結果、実損である払い戻し分を含め上映会の準備に必要な補償額でまとめることとした。同時に、今後の土・日のメンテ体制、委託のあり方についての全庁的な検討を要求した。

映画の中に、信楽青年寮の伊藤嘉彦さんの作品を野焼きする場面がある。映画はそこで中断された。出来上がった作品を見たい。ビデオはでないのか。近くどこかでやらないのか。いいところだったから機会があれば是非みたい。騒動の後、多くの声が寄せられた。そうした声に応えたい。そして、今度こそ的を定めて最後の弓を引く。

(伊東)

孝広君の最近の様子が知りたーい!

毎日柿のたねに通い、その後夕刊配達に出かけていく働き者の孝広君ですが、95年から始めた毎日新聞の夕刊配達も早いもので、すでに5年目に突入しました。朝10時から3時過ぎまで柿のたねで仕事をした後、雨の日も風の日も大きな声で「行ってきます」と言って出掛けていきます。今年の2月には新しい区域に変わり、下馬・野沢辺りを配達していましたが、今はまた元の区域に戻り学芸大学東口商店街近辺を、自転車をこぎながら元気に働いています。

そして報告が少し遅れてしまいましたが、この8月からは恵比寿にあるアメリカ人がオーナーの会社でオフィス清掃の仕事を毎朝8時から2時間おこなっています。この話は人を介して、働く意欲のある人を探しているという相談が柿のたねにあり、それなら孝広くんはどうだろうかということで、7月21日に孝広君とお兄さんの利信くん、無着さん、私の4人で面接に行き話をしたところ、「熱心に働いてくれる人なら障害のあるなしは関係ない」ということで、きりのいい月初めの8月3日(火)から(月曜日は月1回の会議のため)通うことになりました。

始めて10日程は私がジョブコーチとして一緒に通っていましたが、オフィスの人たちも積極的に孝広くんに話し掛け丁寧に接してくれたおかげで、緊張していたのも最初だけですぐに仕事や職場環境にも適応し、今は一人で通勤しています。仕事に慣れてきた3ヶ月目くらいが一つのポイントかと考えていたのですが、特にトラブルもなく無事に働いているようです。会社の仕事が企業のホームページやCM製作をしている関係か、いろいろと情報を仕入れてきて、柿のたねに来ると「○○のホームページ見る?」などと言ってひまを見つけてはパソコンで検索しています。

新しいことを次々に始め、今では朝7時過ぎに家を出て帰宅は6時過ぎというりっぱな(?)労働者の孝広くんももう27歳。社会生活を営むための実力をメキメキとつけ財政的にもある程度の収入を得て、そろそろ将来のことを考え始める時期にきているかな。かつて「明日から柿のたねに就職します」と宣言して踏み出した一歩を、今度は「自立生活を始めます」に置き換えて、邦彦くんや平山くんに続いて新しい生活スタイルを考えていく事が今後の課題となりそうです。これからが楽しみだね、孝ちゃん!

(チェリー)