普通学級における付き添いについて
私たちはどの子も地域の普通学級に通いともに学び育つ中から一緒に生きていく環境や意識が育まれると考え、就学時健康診断や就学相談を行い、みんなが通うことのできる学校の実現を目指してきました。
柿のたねに相談のあった、障害を持った子どもたちも何人か普通学級に通っていますが、対応は個々まちまちで入学の条件として親の付き添いを強要されているケースもあります。付き添いの強要は親にとって時間的、肉体的、精神的に苛酷な負担となり、また障害を持った子どもにとっても新たな人間関係を作る学校に親が入ることで、子どもたちの関係に悪影響を及ぼし、それが結果として障害を持った子どもが取り残されていく現実を生み出す一因になっています。どうしても介助が必要であれば学校側の全面的受け入れを原則とし、親と本人の選択を前提にした本人がクラスに溶け込むための一時的な橋渡し役と位置付けるべきで、本人との信頼関係を持っている介助員を指定できる形が望ましいと考えられます。そこで障害を持った子どもが安心して通うことのできる環境整備として、普通学級における付き添いについて要望をまとめて教育長宛に提出し、現在親の付き添いを強要されているケースについて学務課と3月19日に交渉を行いました。
課長と担当職員に対し、こちらは柿のたねのメンバーに現在障害を持った子どもが学校に通っている親とあわせて7名が出席し、最初に現状を聞いた。目黒区では普通学級に入る場合個別対応で、財政的な間題もあり介助員がついているケースは身体に障害を持つ子どもで1件あるだけで、あとは親がつくか(身体で3件、知的で2件)親が頼んだ人がつく例が1件ある(知的)だけだという。来年度入学予定の子ども(身体)1名について、補正予算を組んで介助員をつけるという話も出た。今回交渉しているケースについては以前から、親の体調に支障をきたし何とかならないかと話をしているのにどうなっているのかと聞くと、「(入学の時に親がつくという話をしているので)頑張ってもらえるのかなと思った」という答えが返ってきた。また身障学級にも非常勤を入れていて予算の面でなかなか個別に分ける形はできないという。結論としては今回のケースについては補正予算が組めなくても何とかするという事だが週1回くらいと、すっきりとした回答は出てこない。細かいつめについては学校の現場で話し合うしかないという事だが、親の付き添いを外してこちらで介助をつけるという確認と、ぜひ施設面の改善についても考えてほしいと要望を伝える。他には参加した親から体験談として、「親が入ると親に甘え、他の干どもたちが親任せになってしまう。子ども同士で学ぶ事はたくさんある。他の子どもの面倒を見ることも多く何をやっているか疑間だった」という話や、個別対応ではなく誰でも親の付き添いを外すようにしてほしいという意児が出された、今回は個別の話に終始したが、次回は教育長の出席を取り付け、普通学級の受け入れについて制度的な話を詰めていきたいと思う。
(チェリー)
春の嵐に道明寺作り
今年の桜は早いだろうという予測も、2月に逆戻りしたような冷たい雨の続く日の中で、正に春の嵐の3月22日。道明寺(桜餅)作りに初挑戦した。上目黒住区の広い調理室を5人で占領し、まーちゃんと薫さん、優子ちゃんと岡村さんがくみ、そして私は一番楽な監督。
糖蜜を作り、ふやかした道明寺粉に混ぜ火にかける。ま一ちゃんはゆっくり混ぜ、優子ちゃんはかき混ぜる。芯が無くなるまで煮た道明寺粉を30分程蒸らし餡を包む。30gのがわで25gの餡をつつむのに、岡村さんは実に1つ1つ秤で計りながらあとからあとから作っていくのだ。彼女の仕事の手早さには感心する。その30gのがわを平たく伸ばし、餡を包んで塩漬した桜の葉で包めばできあがる。
まーちゃんはうまいこと館を包みまるめていく。優子ちゃんははみ出す餡に苦労しているが、なぁーに葉っぱで包み込めば見えやしない。
ざっと40個の桜餅ができあがった。
出来上がった道明寺をもって斎藤さんのところで、優子ちゃんのお手前でお茶を頂くことになっている。斎藤さんのところでは、着付けを教えてもらっている梶岡さんが清楚な着物姿で待っていた。2ヵ月練習していなかった優予ちゃんは、段取りが思い出せないのがくやしいらしくベソをかきながらお手前を始める。彼女はくやしかったり悲しかったりすると、そのことから今まであった心こひっかかっていることなどが全部わきあがって彼女の心を占領するようで、その世界に入り込んでしまう。家子さんがかまわず続けさせる。だんだん落ち着いてきた優子ちゃんに2服も頂き持ってきた道明寺をみんなで食べる。自分で作ったものはやはりうまい。
窓の外では風も弱まり、落ちはじめた早い春の陽が透明な茜色に空を染める。春だなと思う。皆で知った季節の新しい楽しみ方だった。
(伊東さえこ)
野沢の思い出
私が、スキーを始めたのは、昭和44年頃だったと思う。前年に、フランスのグルノーブルで冬期オリンピックが開催され、アルペンのジャン・クロード・キリーが、トニー・ザイラーに遂ぐ史上2人目の三冠王になった・その記録映画を見、テーマ曲の「白い恋人たち」に酔い、自分もスキーをやってみようかと思ったのである。実は、新潟生まれなのに、就職する迄スキーの経験は無く、新潟出身だと言うと、決まって「じゃあスキーは上手でしょう」と言われた。新潟でも、市内は山も無く、近くにスキー場も無いのだと懸命に弁解ばかりしていたのも、遂に始める一因となったのかも知れない。ところが人に教わるのが苦手で自己流且先走りするものだから、一向に腕は上がらない。そんな時訪れたのが野沢温泉である。当時(昭和46年頃)は、勿諭新幹線など無く、上野から長野迄、急行で3時問半。長野電鉄に乗り換え、木島迄1時間強。木島から野沢温泉迄、バスで40分。計6時間を要した。当時はスキーが面白くなりかけた時で、会社の同僚達が二日酔いで寝込んでいる朝一番にゲレンデへ行き、秘かに練習していた。ある日、シュナイダー・コースで悪戦苦闘していたら、突然蝶が舞うが如く、コブを一気に滑り降りてくるスキーヤーに遭遇した。よく観ると、その人は片足が無かった。その時の驚きは、今でも鮮やかに記億に甦ってくる。今でこそ、パラリンピック等で障害者用の用具が発達しているが、未だずっと前の時代だった。あんなに素晴らしい滑りがどうしてできるのだろう。どんなに練習したのだろうと感動したものだ。その後、何度か野沢温泉を訪れる度に、スカイラインやシュナイダー・コースでその人と出会った。今から思うと、この出会いが本格的にスキーをやる切掛けとなったのだと思う。それからは、石打(丸山)を常宿に、3月以降は雪を求めて、奥志賀、白馬、かぐら、みつまた、天元台、八甲田という様に、1シーズン40日以上滑った。色々なスキー場を訪ねたが、やはり温泉のある、スキー場が一番いい。滑った後、お湯に浸かれば、一日の疲れはスーツと消えてしまう。
思い出深い野沢温泉に、去年に引き続き参加させていただいた。恵実も慣れたとみえ、1日目の車中では、お弁当を1.5人前平げ、おまけに隣席の女性のお菓子を勝手にデザートにして、先ずは順調なスタート。スキー場に着くなり早速ゴンドラヘ。上に行くに従って天侯が急変する。しまった、ゴーグルを忘れた。顔には霰擬の雪が吹き付け、顔は痛いし、視界はゼロ、ゴンドラの音を頼りに這這の体で下りる。スキーにゴーグルは必携品と痛感。山を甘く見ない事が肝心。午後は恵実にスキーを履かせる。天性のバランス感覚で、直滑降は満点。でも何かおかしい。視線が常に一定方向へ。よく観察すると、目線の先は下の食堂だった。私がちょっと目を離すと完璧な斜滑降の体勢を保ち、一路食堂を目指すのである。恵実の意思の強さに脱帽。夜は大宴会。飲む程に親父ギャグが飛び出す。何故次々とギャグが出るのだろう。それは親父だからだ。何時に床に就いたか記憶に無し。
翌朝は晴天。午前中はフリーでスキーを満喫。午後は子供達と遊ぶ。夜は温泉へ直行。湯屋建築と呼ぶそうだが、昨年「大湯」の外観を見て、その見事さに驚いた。浴場個々の建築を見て回るのも楽しみの一つ。今回は孝広君の案内で「新田の湯」へ。湯船を出るなり、隣人のシャンプーを無断借用(私は知らぬ顔)。お湯をかけてやると、今度はリンスを借用。孝広君てオシャレ。第一陣の飲兵衛連が帰っても、夜は再び盛り上がる。教育委員会を肴に又翌朝迄。3目目は又々晴天。ゴンドラで上がると、アルプスや妙高と大パノラマが展開。上の方は雪質も良く、皆楽しそう。特にさなえちゃんの上達ぶりには目を見張る。若いって素暗らしい。
私と恵実が出発後、長女が妻に言った言葉、「お父さんと去年滑りに行った時、直ぐに疲れたを達発していたよ。体力無くなったね」だそうである。どっこい不良中年スキーヤーは未だ健在だ。未だやるぞ。それに、50才以上のシルバー・リフト券(通常価絡の千円引き)を発行している所へ連れていって、優越感に浸ってやるぞ。スキーも、アフター・スキーも楽しい3日間。恵実をいつも暖かく見守って下さる皆さんに感謝々々。
(渡辺恭伸)
今、古紙をめぐる状況はどうなっているか
10数年前までは、古紙回収といえば、集団回収かチリ紙交換車によるそれであった。しかし、ゴミ減量のため自治体が直接・間接に古紙を回収する量が増えるにつれ、古紙の需要・供給のバランスは崩れていった。入り口ばかりが太くなり、出口は細いまま。新聞古紙の場合、かつて回収業者からの問屋購入価格がキロ25円以上した時代があったが、現在の新聞古紙価格はキロ2〜5円と史上最低価格を更新し続けている。古紙回収にかかるコストがキロ8円というのだから、自治体なりの補助金でもなければ、集めるほど赤字が出て商売にならない。新聞古紙の問屋在庫は減少しているが、製紙メーカーは古紙価格を上げようとはしない、回収業者が集めずとも、どうせ自治体から出てくると高をくくっているのだ。市場原理は機能していない。
東京都清掃局の古紙直接回収は何をもたらすのか?
古紙業界はこのような厳しい状況にあるのに、今、東京都清掃局がそれに拍車をかけている。2000年からの23区への移管を目前に、都清掃局は古紙回収を都職員の直営でやり始めた。92年に「ゴミは東京郭が、リサイクルは23区で」と分担、ほとんどの区が古紙の集団回収を推進してきたのに、「週3回だった可燃ゴミ収集を2回にし、1回を資源回収日にする」とし、「96年から資源ゴミ回収のモデル実験」を開始した。モデル実験の報告を見ても、直営回収は民間業者が回収するより2〜3倍コスト高であることは明らかだ。そうでなくても都は税収が減り、財政引き締めの非常事態宣書を出したのではなかったか? 税金の使い道は、大きく高齢者や福祉方面にシフトせねばならない時代である。にもかかわらず、東京都清掃局がすべてを税金で回収するコスト高の直営方式を選び、市民参加の集団回収を壊し、回収業者の仕事を奪い、緒果的に古紙余剰と古紙循環システム崩壊に摘車をかけるのは何故なのか?
表面には出てこないが、23区移管にともなう清掃職員雇用の問題が水面下にある。91年に490万トンを突破した東京23区のゴミはその後減り続け、今や約400万トンに。ゴミ収集だけでは職員も擁上業者(民間から借り上げの車と運転手)も減るばかり。移管にともなう都と清掃労組との協定にそい、資源ゴミも職員の手でどうしても収集せねばならないというわけだ。2000年からの6年間は、都職員の身分での23区への出向だという。これが、区が自治権と主体性を発揮できるようになるはずの郭から23区への移管の実態である。
こうしてしっかり民間の古紙循環システムを壊し、6年後に区が回収業者に委託しようとしても、もう遅い、今やるべきは、再生資源化部分のコスト分坦を検討し、持続可能な古紙循環システムを再構築することなのに。
(中村正子)