地域福祉・障害者行動計画懇談会報告
目黒区では平成5年度から平成15年度に至る目黒区地域福祉計画「すこやかに安心して暮らせるまちをめざして」(平成6年3月)目黒区第二次障害者行動計画「障害をもっていても安心して住み続けられる目黒区に」(平成6年1月)上記の計画書が発行されている。
今年はその中間の見直し年として10月24日と11月20日に説明会が開かれた。
10月24日は、平成12年から始まる介護保険制度について質問が集中して終わった。
柿のたねとしては、障害者行動計画についても区に当方の意見を聞いてもらいたいと思い、11月20日に再度出席してチェリーが要望書を作成し、読み上げ、出席者にも配布してきた。以下は、それを要約したものである。
1 登録ヘルパー制度の充実
緊急介護やホームヘルプサービスの拡大を。全身性障害者の介護派遣だけではなく24時間介護の必要な知的障害者にも、自立生活の保障について登録ヘルパー制度の拡充などでぜひ実現してほしい。
社会参加についても必要に応じて拡大を。またボランティアが参加しやすい条件として登録ヘルパーの拡充などの制度を広めることにも力を注いでほしい。
2 ショートステイについて
早急に病院ではない宿泊施設の確保を。家族が倒れての緊急一時ではなく、家族が倒れないですむケアのあり方、レスパイトケアをより進めていく方向を考えて。
また民間の自立生活体験への取り組みに対して助成し、登録介護人制度を積極的に進め、ボランティアを受け入れる条件を広げ、障害者の自立支援につなげていってほしい。
3 住宅確保、グループホームについて
障害者自身が住宅を借りるには、現実は厳しい。区が後ろ盾となり斡旋したり、借り上げる等積極的支援を。
グループホームについて、身体障害者と知的障害者の混在型や人数にこだわらないスタイルの幅広さ。また完全に一人で生活するには不安のある軽度の障害者について、支援のためのステイションを作りその周辺に点在するサテライト方式といったような弾力的運用を進めてほしい。
4 雇用について
重度の身体障害者や知的障害者に対し、福祉の店だけではなく民間グループと区が請負契約を結び積極的に雇用の機会を保障してほしい。またジョブコーチシステムの考えも導入したら如何や。
5 緊急介護の現実に即した雇用について
現行の緊急介護は、数時間くらいの介助が必要なときなどは特に役に立たない。福祉工房やデイサービスの時間延長等と組み合わせることでクリアできる場合もある。もっと利用者の現実に即した運用の仕方について真剣に検討し、柔軟な対応を求める。
6 心身障害者センターについて
都立大跡地にできる心身障害者センターについてショートステイやデイケアなどの各種事業だけでなく独自に活動する障害者や支援グループの交流、情報交換をするスペースの確保、障害者自身が運営に具体的に係われるまた調査活動や苦情受付等も行えるような制度の確保が必要。
7 教育について
社会の正確な縮図である学校こそ誰もが一緒に学び育つ必要がある。障害のあるなしで普通学級、障害児学級、養護学校と振り分けられるのではノーマライゼーションの理念は育たない。真の統合教育を目指すことが障害者が地域で生きていく条件である。また災害時の避難場所としてバリアフリーの必要性も考慮してほしい。
8 オンブズマン制度による苦情処理の確立
以上の7項目が当事者の声を反映し当然の権利を守るためきちんと果たされているか、行政指導ではなく市民の目によるチェック機能、障害者が参加する苦情処理システムとしてオンブズマン制度を確立する必要がある。
私たちは障害を持つ人も持たない人も共に生きる地域社会の実現を目指して地域に根ざしたオープンスペースとして柿のたねを作り様々な活動をしてきた。しかし誰もが当たり前の生活を送るノーマライゼーションという考え方が地域福祉の場において語られるようになって久しいが、障害者福祉の現状ではまだ障害者のニーズに答えているとは言い難い。障害者の自立支援を進めていくためには、福祉行政に対するチェック機能を、オンブズマン制度を早期実現し啓発活動を行うことが強く望まれる。また障害者のニーズがどこにあるのかを正しく把握し、地域で生活するための条件整備、利用者本位の制度に変えていくことを要望する。
行政にどんどん声を上げていき誰もが生きやすい社会制度を作って行くことを目指したい。
(無着麗子)
“ピープルファースト” T.J.モンロー氏を囲んで
アラスカの国際会議で声を掛けられて以来、再会を心待ちにしていたT.J.モンロー氏が奈良の全国交流集会参加のため来日し、11月26日東京ピープルファーストはなしあおう会が主催する「TJさんとはなそう会」に相乗りさせてもらう形で再会が実現した。会場となった都庁の会議室に現れた彼はトレードマークのテンガロンハットを片手に、過密スケジュールの疲れも見せず半年前と変わらぬ笑顔を振りまいていた。彼は生い立ちや育った大規模施設の話、活動を始めた経過やオハイオ州で動物病院の仕事をしながら暮らしているアパートのセキュリティーの事などについて語り、また運転免許証を見せてもらいながら(彼は文字の読み書きができないというのだが)取得の経緯についても話してくれた。
その間邦彦くんは相変わらずみんなに静かにしてくださいと注意を受けながらも機嫌よく座って話を聞いていたし、TJさんから質問はないかと聞かれた優子ちゃんは緊張のためかうまく話せずにいたけれど、後ではなしあおう会代表の大沢さんに声を掛けられた時ははにかんだ笑顔を見せていた。
会場を近くの中華レストランに移してからは柿のたねの他のメンバーも合流した。自己紹介で孝広くんが「マイネームイズTJモンロー」と真似たのに大ウケしたモンロー氏は「ビールは僕のメディケーションだ」と言いながら陽気にいろいろと話してくれた。その夜は彼が柿の木ハウスに泊りにくることになっていたので暁子さんらを残し邦彦くんたちと先に帰宅したが、彼らが戻ってきたのは日が変わってからでさらに明け方まで話をしていた。彼のタフさには感心しきりだったがおかげでとてもハッピーな気分の一日でした。
(チェリー)
今回の企画参加に際し、快く応じてくれた「ピープルファーストはなしあおう会」の大沢さん、佐々木さんには大変感謝しています。本当にありがとうございました。そして陽気で元気なT.J.モンロー氏に
SPECIAL THANKS AND GOOD LUCK
T.J.モンローとジェームズが柿の木ハウスにやってきた
勤労感謝の日の前後、奈良ではピープルズ・ファースト(知的障害者の団体)の全国大会があり、そのゲストとしてT.J.モンローが来日、東京にはフットルースの障害者交換プログラムでUSAから15名が来日していた。
フットルースの後半、ゲストたちはホームステイすることになっていて、その一つに柿の木ハウスも選ばれていた。そこにモンローも急に来ることに決まり、11月26日にモンロー、27・28日はジェームズが泊まりにくることになった。ちょうどおりしもバザーの直前、またフットルースの他のプログラムに私たちも参加していて、怒涛の一週間だった(24日は浅草の宝捜しゲームでみんなとても楽しんでもくれたし、準備で何度か訪れるたびに新しい発見もあり、結構面白かった。26日の荒馬座での和太鼓も私は参加できなかったけどとても楽しかったらしい)。でも、ゲスト以外にもいろいろな人が訪れ、刺激的な日々だった。
What's your name?
さて、モンローはUSAではじめて知的障害者の当事者として審議会のメンバーに選ばれた人。小さいころ施設に入れられて、そこから出て自立生活を実現したという。お酒とおしゃべりが大好きで、自称予知能力があるという。いたずらも大好きなようで、人をひきつける魅力が現在の彼の位置を築かせたのだろう。邦彦君も結構リラックスして眠いにもかかわらず、気になってそばに来て座ったりしていた。そして、なんといっても面白かったのは孝広君とのやり取り。
モン「What's your name?」
孝広「What's your name?」
モン「T.J.Monroe. What's your name?」
孝広「T.J.Monroe」
孝広君の物まねの天才ぶりがいかんなく発揮され、その後何度聞かれても、孝広君はあなたの名前はと聞かれるたびに、大きな声でT.J.モンローと答える。そしてその発音はとてつもなく正しい(そうだ)。
次の朝、二人きりでコタツに入っている時、孝広君の得意ねた、ウンチ話が始まった。当然モンローは理解できない。彼は何とか理解させようと「ウンチ、U・N・C・H・I」とローマ字で言い始める。でもね、ローマ字で言えばわかるってもんじゃないんだよ! と隣の部屋で笑いをかみ殺す。
抹茶はちょっと勘弁?
一方、ジェームズはユージーン大学で、入学してきた障害者のための環境作り(例えばコンピューターを改良するなど)を仕事にしていて、妻と5人の子どもだち(3人は妻の連れ子だそうだ)への愛で満ちている。いろいろな人に写真を見せ、彼らへのお土産がいっぱいと、日本人と愛情の表現方法が違うのも微笑ましい。
普段は身体障害者との付き合いしかない彼は、柿の木ハウスの生活にちょっと戸惑っていたようだが、抹茶を飲んだり(これは苦手のようだった)、お習字をしたり、買い物をし、結構楽しんでいったと思う。
彼は二日間いるので、全員着物を着て、相撲レスラーが登場したり、切腹が行なわれたり、日本の(誤った)伝統文化を教えようという、壮大な計画もあったのだけど、結局、適度な文化伝播にとどめた−というのは準備の時間がなかったからだけども(でも、おかげで私は本当に久しぶりに着物を着てしまったのだが)。
そう言えば、二人のために各部屋の前に墨で日本語と英語で「台所/Kitchen」のように書いて貼っておいたのが、そのままになっていて、その後、水道工事に来た人が怪訝そうな顔で見ていたとか……。
最後に、柿の木ハウスに越してきたばかりに、通訳としてこき使われた石下さんお疲れ様。
(さとこ)
障害児を産んだのは罪ですか?
罪の償いとして、全介助を要求されるのですか?
就学時健康診断を考える集い
宮崎真佐美さんのお話しの要約です。
8ヶ月の早産で脳性マヒとなり、今、5年生で、杖を使って歩いている。周囲から幼稚園を勧められ、入園。本来なら3月生まれで体も小さかったので、就学猶予をしようと思ったが本人が「なぜだ」と怒った。最初勧められた学校に通級があるというので、良いかなと思ったが、給食も先生と二人で同級生と一緒ではなく、授業も違う。『これは一寸違う』と思い、断った。
3月半ばまで就学通知が出なかった。双方とも早く決着をつけねば、という事で「つきそいにつけるか」と聞かれ「はい」と答えると対応がガラッと変わり、全時間介助をつける話になってしまった。やっと出た就学通知と一緒に、学期ごとによく話し合う事という一文が付いてきた。良く話しあってくれるのかと思って、「はい」と答えたが、向こうは排除に使うつもりだった。
1〜2年の時に担任が全国連絡会の人で、学校にいる間はいいですよという事で、送り迎えの介助だけだったので、継続相談の時に「よかった」というと、「全面介助の話だったのに何故つかないのか」と責められ、「担任はなぜつかせないのか」と担任に対する風あたりはものすごかった。多分給与カットもあったのではないかと思う。
3年になって教室が2Fになり、昇降機を用意させたが、絶対に教師には使わせなかった。車椅子がフィットしなくて、抱えて乗せなければならないので、腰に来る。
いろいろな人に手伝ってもらう事で大変さを知ってもらおうと思った。手伝ってもらうという事は、他人の時間を奪って、時分の自由を確保するようで、罪悪感があったが、『係わることで私も生かされているのよ』という他のお母さんの声に励まされて、たくさんの人に声をかけた。それでも制限はある。介護の予定の人に急に用事が出来ると、自分で替わらなければならないから、完全にフリーになるわけではないから、予定を立てることは出来ない。学校が、どういう人が介助に入っているのか名簿を出せといって来たが、来てくださっている本人に聞いてくださいといった。不特定多数の人が入るのがいやだったら、市の方で介助を用意してくださいといったら、「仕方ないな」という反応だった。最近は、親以外の介助がダメという所があるらしい。「他の子の人権が守られない」という名目だが、そうしたら障害児やその親の人権はどうなるのか。
普通学校へ通うという事と、親が介助するという事が、セットになっているが、別の問題だと思う。親の介助には限界がある。男子トイレに付き添って行くと、友人もいやだし、本人が成長した時に介助は不自然。親が介助に入っていると、友人関係も制限される。親がいると、けんかもできない。
校長が「お母さん、あっちの学校へ行けば、介助も送り迎えも必要ないんですよ」と甘い言葉を云う。親に介助をさせて、ネを上げさせようとしているとしか思えない。
中学校では介助は学校にお願いしようと思っている。『市長と語る会』に行って、本人が、「僕はみんなと同じ学校に行きたいのでお願いします」と言ってきた。
障害も状況も違うので、他の人のやり方をそのまままねる事はできないが、いろいろな人の話を聞くと元気づけられる。
今まで先を歩んでいた人達が切り開いてきた道を少しでも押し広げて行ければと思う。行政をくずしていくのは難しい。地域を変えていくしかない。障害をもった事や障害児をもった事で、勉強してきた事を積み重ねて、それを生かせるシステムを作らないといけないと思う。
今回の話し手は、車椅子で武蔵野市立第一小学校に通っている現在5年生の息子さんをもつ宮崎真佐美さん。
明るく元気なお母さんで、話を聞いていると、ひろきくんもとてものびのびと育った感じの男の子で、逢いたかったな、と思いました。
要約にすると堅い感じになってしまいますが、とてもわかりやすく、素直に自分の気持ちの流れを語ってくださって、思わず、うん、と頷きながらお話を伺いました。
まだまだ就学をめぐる状況は大変な場面が多いのだと、改めて認識したり、目黒でも困難な局面に立たされているお母さんがいるので、お互いに励ましあったり……。
「柿のたねの合宿に今度是非参加してください」とお誘いをしてお別れしました。ひろきくん、合宿で逢おうね。