1998年10月の柿のたねニュース

9月のバザーは、また雨でした…

好天を念じてますとニュースに書いたにもかかわらず、また雨にたたられた公会堂バザー。始まる前こそ列ができましたが、その後の出足はもう一つ。公会堂のホールでコンサートが開かれていたので、そこに来る人たちに隆広君はせっせとビラをまき、手伝いに来てくださったわーくいん翔のかたは外で「いらっしゃい、いらっしゃい」と呼び込みをしてくれました。おかげで、結構にぎにぎしく、華やかではありました。

でも、雨の中持って帰ることを考えると、お客さんもつい慎重になってしまいます。ということで売り上げは、あとちょっとで50万になったのに残念、という額でした。

いつもバザーのたびに思うのは、売り手も、買い手も、毎回来てくださる方にささえられているということです。公会堂バザーを普段の市とは違う楽しみにしていてくださるのでしょうか。売り手は毎回50人を超える規模になりますが、今回も連絡してなかったけどいいですかと、当日になってお手伝いに来てくださった方も何人かいました。

雨にもかかわらず、手伝ってくださった方、買い物に来てくださった方、本当にありがとうございました。当日はばたばたして、いろいろ不手際もあるし、お礼も満足に言えずごめんなさい。また、今回、学芸大学の商店街の店が20軒以上ポスターを店頭にはってくださいました(商店街のバイトをしていたヒロシ君の力でもあります)。他の地域でもポスターを張ってくださったお店が結構あります。皆さんありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

バザーの後の反省で、やっぱり9月は天候が不安定で難しいね、来年は10月の初めにやろうねということになりましたので、これもご報告まで。

(さとこ)

誰もが普通学級で学び育つために…

今年もまた就学時健康診断が実施されます。実際子どもたちを振り分けるための進路指導はそれ以前から始まっていますが、ある意味でシンボリックな存在である就健に対して、私たちはこれまでも反対するビラまきを目黒区内全体で続けてきました。子どもたちにとって社会生活の基礎となる小学校から普通学級で過ごすことは、誰もが地域で生きていくための第一歩として非常に大切なことだと思うからです。そしてこのことは障害児とその親たちにも考えてほしい、そのきっかけになればと願っているからです。

現在目黒区では本人とその家族が強く希望するかぎり普通学級への入学は拒まないということになっていますが、それは受け入れるのとは程遠い隔たりがあります。実際入学後も家庭はことあるごとに呼び出されて進路指導を受け、特殊学級への転級を迫られたりしていますし、学校での介助に親がでてくるのは半ば当たり前という状況が続いています。もちろん中には懸命に受け入れようとする学校や担任の先生がいる場合もあります。けれど校長の移動で状況が一変したり、学年が進んで担任が替わるたびに障害児とその家族は不安を感じなければなりません。そして時には同じクラスの親からも、あの子がいると授業が散漫になるとか、親切にしているのに感謝もしない子はいるべきではないなどと中傷ともとれる非難を受けることさえあるのです。表面的にはみんなで仲良くしましょうと呼びかけていても、学校のこうした対応に子どもたちの嗅覚はとても敏感です。そして家族が疲れ果て、特殊学級に転入しようものなら学校はこぞって、本人のために家族が望んだことだと口を揃え、子どもたちにはやっぱりあの子は違う子なんだという意識が植え付けられていきます。これは決して他人事ではありません。その状況を黙認して障害児とその家族を追い込んでいるのは、その学校に通うすべての子どもたちの親なのですから。

沈黙は美徳ではなく、時として罪になることさえあります。積極的に非難していなくても、それに対して異を唱えなければ結果は一緒です。障害児のいる家族はいつも孤独と不安を感じています。そんなとき同じクラスの親たちに、いっしょにがんばりましょうと声をかけられることが、どれだけ心強く感じることでしょう。先生たちは替わることがあっても、子どもや親は基本的に6年間一緒です。多くの場合それは中学校まで続いていきます。そこで仲間を作り関係を育てていくことこそ、誰もが一緒に生きていくために必要なことではないでしょうか。子どもたちもそんな親を見ながら成長していきます。今の学校は障害児だけではなく、かなりの子どもたちにとって居心地の悪い場所になっていて不登校の数も年々増えています。よく社会的弱者にとって優しいものはすべての人に優しいといいますが、よりピュアな子どもたちの社会である学校こそまさにそうあらねばならないのに、現実は遠くかけ離れています。しかし、学校が悪い社会が悪いと非難ばかりしていてもなんの解決にもなりません。どうすれば、子どもたちにとって居心地のいい環境になるのか、他人まかせではなくひとりひとりが真剣に考えて発言し、行動することが大切なのではないでしょうか。いま沈黙するのは、子どもたちの未来を放棄することになるのです。

今年も就学時健康診断を考える集いを行います。講師は、障害をもった子どもが通う小学校で仲間を作りながら頑張っている武蔵野市在住の宮崎真佐美さん。テーマは学校に入ってからのあれこれについて、体験に基づいていろんな話をしていただきたいと思います。そして是非みなさんの参加をお待ちしています。活発に意見を出し合い、どうすれば現状を変えることができるのか、みんなで一緒に考えたいと思います。よろしくお願いします。

(桜原)

私とお茶と優子ちゃん

私とお茶の出会いは、20歳の頃ですからだいぶ昔のことになります。故郷の職場で誰言うともなく、茶道クラブを作ろうかということになって、数人が集まってお茶のグループが出来、それに入れてもらったことが懐かしく思い出されます。その時の先生が私たちに一期一会という言葉を教えて下さり、「今この時間は二度とないんです。人と人との出会いも、同じ出会いは二度とないんです。この瞬間を大事にして後悔しないように、何事も精一杯の事をして、人生を楽しみましょう」と言うのが口癖でした。そんな先生のもとで楽しい仲間と、最初はなにもわからずお稽古を始めましたが、大好きになってしまい、本当に楽しい青春時代を過ごすことが出来ました。

その後、仕事の都合で故郷を離れたり結婚した後もお茶だけは続け、長女が生まれ主人の転勤で仙台に住んだ時も、時には子供を主人に預けて、仙台から故郷まで稽古に通ったものです。そんなに好きでのめりこんでいたお茶でしたが、東京転勤となり長男が生まれたときにはきっぱりとあきらめて、コツコツ集めた茶道具も友達に差し上げてしまいました。次女恭子が生まれると、全て恭子、恭子で明け暮れるようになり、長女からお母さんの子供は恭子だけなんだねといわれたものです。反省しながらもどうすることも出来ないでいた頃、丁度、柿の木坂から三田に引っ越した時期に当たりますが、イライラして、何にでもカリカリと感情的になっている自分に気づきました。

これでは家族にも自分にもいけない、何かしなければと考えて、もう一度お茶を始めようと思い立ちました。近所の区民センターの茶道サークルに入り、昔を思い出しながら、講習会に通ったり本を読んだり自分なりに研究し、楽しくなってまいりました。しかし残念ながら、健康を害したため研究会や遠出が無理になってしまい、お茶を続けるのは無理かなとがっかりしていたとき、お茶の仲間がそれではと私の家でやってくれることとなりました。

現在は週一回位、仲間とワイワイとおしゃべりしながら、お茶を楽しむことが出来ています。

そんな折り、優子ちゃんがお茶をやりたい、お茶は大好きですと言って通って来るようになりました。初めての時に、お茶を点ててやると、とってもおいしそうに呑むので、ああこれなら大丈夫と思いました。でも正直のところ、優子ちゃんを小さい時から知っていても、あまり話をしたこともなく、どうつきあったら良いのか、迷ってしまうというか途方に暮れたこともありました。普通、お茶を始めるときは、割稽古と言って、部分別にしっかり覚えてそれからお点前に入るのですが、優子ちゃんにとって割稽古は、どうしてもお点前に結びつかないようなのです。それで最初から通してお稽古することにしました。それが良かったのか、何となく様になり、本人もお茶が楽しくなってきたようです。

優子ちゃんが「お茶会をします。」と言い出した時は、本当にびっくりしました。招待状を書こうねと言ったとき、お客さんは二人の予定でしたが、いざハガキを書く段になって、優子ちゃんはあの人もあの人もと結局10人になってしまいました。二度びっくりでした。せっかくの本人の気持ちですので、お茶会とはこんなものよということを知ってもらいたくて、真似事みたいになってはしまいましたが、今年の正月に優子ちゃん主催のお茶会が出来たわけです。

その後も優子ちゃんは、殆ど休まずにお稽古に励んでいます。お点前をする時、注意したり、もう一度やり直してみて、という私の言うことなどは知らんぷりで、嬉しそうに幸せそうに熱中してます。その様子を見ていると、細かいことは、ま、良いかと思ってしまいます。

私も体の調子が悪いと、どうしてもゴロゴロして過ごしてしまいがちですが、お茶の仲間や優子ちゃんに支えられて、お茶の楽しみを味あわせてもらっています。これからも、お茶を通して、優子ちゃんと長いおつきあいが出来たら良いなと思っています。

皆さん、是非のぞきに来て下さい。優子ちゃんが、お茶を一服点ててくれますから。

(斎藤家子)