梅ちゃんを偲んで
10月26日、油面住区センターで梅ちゃんを偲ぶ会が行われた。最初はごくごく近い関係の人が柿の木ハウスで小規模に行なうという話だったが、結局法政大学の同窓生や柿のたねの関係者を中心に多くの人が集まった。寂しがりやの梅ちゃんは今でも人を集めたいらしい。
まずは、梅ちゃんが好きだったという(本当は誰かが梅ちゃんのイメージだとその気にさせただけかもしれない)宮崎駿のアニメ「紅の豚」のビデオを見た。といっても酔っ払いたちはビデオをバックグラウンドミュージックに持ち寄りのご馳走を食べ、飲んで、話している。そしてメインイベントのオークションと称した形見分け(売り上げは柿のたねへのカンパになった)。バイク関係のもの、大量のカバン、結構高級な洋服類、梅ちゃんっていつも同じ格好だったのに、実は物持ちだったのだ。
誰も梅ちゃんが亡くなってから2ヵ月も過ぎたという実感はなかったと思う。そもそも亡くなったという実感もない。こんなふうに人が集まる場には、必ず座っているはずなのだ。いつものように照れた顔して、「やあ、電車が遅れちゃってさ」と言いながら入ってきそうだ(実は寝坊したか、途中でお茶を飲んでいたんだけど)。「エー、それは高かったんだよー」と落札額に文句をつけそうだ。でも現実は梅ちゃんを肴にみんなが会っている。この2ヵ月、こうやって多くの人が出会い、再会した。
あれからまた1ヵ月たち、今も「あ、これは梅ちゃんに頼めばいいや」とつい思ってしまう私。きっとエーと言いながら引き受けてくれるだろうと……。物が減ってがらんとした梅ちゃんの部屋を見ると、こうやって梅ちゃんの痕跡がだんだん消えていくんだなと死を実感せざるをえない。
でも、それぞれが持ち帰った「形見」は今も生きている。皆の心の中の梅ちゃんは、いつも笑っていて、けっこう幸せそうだ。
(梅ちゃんの形見のワープロにて さとこ)
関わりという受け入れが努力を生み出す
江東教育を考える会の秋の教育集会に参加して単位を取ることの意味について考えたこと
9月23日、高等教育を考える会の秋の教育集会が、江東区民センターで開かれた。由井薗先生と優子ちゃん、薫さんと私、4名が招かれ、優子ちゃんの卒業について話す機会があった。
集会は優子ちゃんの卒業をめぐる報告と、就健の取組み、定時制統廃合問題と盛りだくさんであったが、しっかりとした構成で組み立てられ、15名の参加社であった。
由井薗先生はレジュメを元にして、優子ちゃんとの対話という形で話を進められ、私は柿のたねの取組や論議の内容等を補足する役目だった。質問に入って一つの問いかけがあった。
「どうして、優子ちゃんがそんなに頑張らなければならなかったのか。学校が、先生がもっと変わるべきことではないのか」というような主旨であったと思う。
集会の後の懇親会で質問者とそのことについて話をした。その背景には、江東の事情もあるようで、定時制の統廃合によって、とにかく単位を出して早く卒業させる、または廃止されるとなった学科を存続させるために、障害児に対する態度が今までと変わって丁寧になるなど学校の都合によって扱いが変わってゆく、そんな学校への不信感があるようだった。十分にこのことを話し合うことができず、未消化のままその日は終わったが、この指摘は心に残り、その後の私をとても複雑にした。
それは二つの点においてだった。
一つは、単位がとれないという矛盾を障害児に向けることで解決しようとしたのではないかという指摘に思えたこと。
二つは、確かに私たちは、優子ちゃんに卒業に向けて頑張ろうと励まし、時には叱り、一緒に勉強をしてきたけれど、その中で優子ちゃんは目覚ましく成長し、そのことが、私たちや学校を変えてきたという実感があるという現実。
二つ目の実感を大事にしつつ、一つ目の指摘にどう応えるか、私は混乱した。それは単位というものが俎上に上がらないような障害をもっている子の場合、指摘の通りであり、その時の私の中で生まれる分断の容認に対する怯えがあったからだ。しかし、私はやはり優子ちゃんが勉強したい、できるようになりたいと強烈な想いを発した2年間の成長が、私たちや学校を変えたというところから出発したいと思う。
このことで由井薗先生と話す機会を得た。先生の話の中で、一つの例が出された。ある学校でほとんど反応を示さない重度の障害をもっている子の単位について、大半の意見は、彼にとって通って来ることだけで単位に値するということだったらしい。ところが一人の教師が、必ず反応はあるはずだと、様々な関りを示して反応を得、そして、その教師は単位を出した。通うことだけで、単位を出すということは、それはとても大切な視点で、そのことを前提にすべきであり、多くの子供たちが救われるだろう。しかし、その上で、それだけでは優子ちゃんはきっと変わらなかっただろうと思う。
変化のポイントは関りという受け入れなのではないか。単位を出すために何ができて、何ができないのか、優子ちゃんをみつめ直す関りの開始が、優子ちゃんの力を発揮させてきた。そして、受け入れるということが単位という緊張関係を媒体にせざるをえない現実の中で、切り捨てるためでない評価の意味はあるのではないかと思う。
「できなくてもいいのだ」と。しかし、その上でできるようになりたい、できるようにしたいという想いは自然なものではないだろうか。問題なのは、そのことが目的化され、切り捨てるための評価に逆転することではないか。「〜できるようになる」という努力が、選別に結果してしまうような中で学校に通い続けなければならなかった厳しい現実に質問者はさらされてきたことが伺えた。そうした中では、「学校の責任において卒業させろ」と押し返すことで精一杯だろう。
その意味で、優子ちゃんの卒業をめぐり、先生方とそう遠くないところにいると感じながら、お互いに努力するという信頼関係を持ちえたことは幸せなことだった。
優子ちゃんの卒業に向けた取り組みは比較的うまくいった一つの例に過ぎない。しかし、優子のめざましい成長や変化が私たちや学校を変えていったということにおいて、それは感動的だったのであり、優子ちゃんにとってこの2年間の努力の手応えが、友人たちと深く関わる力を生み出し、高校時代を輝かしいものとして振り返ることができるということにおいて、手にした証書を越える意味があったと思っている。
(伊東さえ子)
たつみちゃんのドイツ紀行・サマータイムアドベンチャー
とても大きかったRosiMutterとの出会い
この夏、私は、長年とは言ってもたったの5年間だが、ずっと夢だったドイツを旅してきた。しかも、4週間のサマースクールと、前後約20日間のひとり旅というスケジュールは、初の海外の私にとって、20年間生きてきた中で最もデカイ大冒険といえる。
この旅で私はたくさんの人と出会った。その中で最も、大きな出会いはホームステイ先のRosiMutter(お母さん)である。当初、私は学生寮を申し込んでいたのにも関わらず、「学生寮はいっぱいでホームステイしか空きがナイ」と言われて、渋々了解。しかし、ドイツ語しかしゃべれない人と生活するほどの語学力など到底持ち合わせていない私はかなり、落ち込んだ。伝えたい事はたくさんあるのに、言葉が通じないというのは、こんなにもつらくはがゆいことなのかと強く思い知らされた。当初、話の3割程度の理解力しかない私に彼女は辞書を持ってこさせ、単語の一つ一つを全部、引いて説明してくれた。少しづつ、ふたりの距離が近づいてくる気がして、とてもうれしかった。Rosiは笑顔のステキな女性だ。
彼女はひとり暮らしのはずなのに、なぜか寝室はツインベッドがある。この謎は週末に解けた。60歳は過ぎているであろう彼女には週末を共に過ごす恋人がいたのだ。こんな言い方をしたら怒られてしまうだろうが、やはり、日本で生きてきた私にとっては驚くべき事である。しかし、アパートで住人も、そんな二人を白い目で見る事はなく、“おはよう”とあいさつを交わせる。そんなこの国の人々の距離感に、また一つここへ来た意味を感じたのだった。
ヨーロッパの中でも働き者だと言われるドイツでさえも、週末という言葉はきちんと存在する。土曜日の午前中をもって、ほとんどの店やデパートはシャッターを閉める。今回の旅でウインドーショッピングという言葉を本当の意味で理解したぐらいだ。当然、コンビニなんてものは存在しない。だから、休日ともなるとパン1つ買う事もできない。最初は“もっと働こうよ”と心から思ったものだ。けれど少々不便でも街全体に休日のゆったりとした時間が流れるのを感じる事ができる中で、私は本物の休日と生活のゆとりというものを教えてもらった。
ドイツへ行って、もう一つ知ったことがある。それは、おそらく目の色が何色であろうとも、全世界共通して子どもはみんなかわいい。しかし、年を取るごとに、国によって、様々な文化の違いによって、大きく変化する。お年寄りを見ると、それは如実に表れる気がする。ドイツのお年寄りは、太陽の下で太モモまでのショートパンツをはいてサイクリングをしたり、少し正装をしてコンサートへ恋人同士や、夫婦で出掛けたり、真夏の太陽の下でデッカイパフェを食べたり、皆、自由で生き生きとして見えた。そして、それは決して一部の人に与えられている特権ではない。私も、どうせ年を重ねていくのなら、週末の朝を恋人や友人とのんびり過ごして、コンサートの帰りに手をつないで歩けるようなおばあちゃんになりたい。
私に、息子のグチをこぼしながらもサンドウィッチを持たせてしまう、お花の可愛がり方をとてもよく知っている、私の渡した小さな花束を涙を流して喜んでくれた、Rosiのような人に私もいつかなれたらいいな…。と大きな人生の目標を持ち帰った旅でした。
最後に、ひとり旅を許してくれたご両親様、「お土産なんていいからおいしい物をいっぱい食べといで…」と励ましてくれた親友、そして、夜中の泣きの電話に黙って付き合ってくれた上に、ガイドブックまで送らせたもう一人の親友。その他、今回の旅をバックアップしてくれたすべての人達へ心からVielen Dank!
(伊東たつみ)