2006年6月の柿のたねニュース

ピープルファースト大会 in 沖縄
いちゃりばちょーでー!(一回会えば兄弟さ)

朝6時半ごろ柿の木ハウスを出て、都立大で東急東横線に乗って、渋谷から山手線に乗り換えて、品川から京急線で羽田空港まで行き、沖縄行きの全日空ジャンボに乗って那覇空港に行きます。

那覇空港からタクシーで沖縄料理「あぐー」に行きます。お昼ごはんを食べて、2,200円払って、タクシーで那覇市民会館に行きました。分科会に来ること。

福岡県のカリタスの家で熱湯コーヒーを飲ませた。分科会が終わったら、ホテルへ行く前にタクシーに乗って、分科会の後パーティーをやります。

パーティー終了後、ここから歩いてホテルに到着。タクシーでかりゆしホテルに行く。翌日、朝ごはんを食べて、食べた後タクシーで看護大学に行きます。分科会に出ます。チケット忘れたら駄目!

那覇市民会館へ移動。来年は広島大会です。二日目終了後、お弁当を食べて、タクシーで那覇空港へ行き、羽田行きの飛行機に乗る前にお土産を買って、沖縄蕎麦煎餅、沖縄パックンチョなどを買って、飛行機で羽田に行きます。

羽田空港からエアポート快速特急に乗って、品川から山手線に乗って、目黒から東急目黒線で西小山で降りて、三谷くんサヨナラ。

(福田 孝広)

今年もピープルファースト大会の季節がやってきました。6月17日・18日と沖縄県那覇市で開催された「第13回ピープルファースト大会 in 沖縄」の報告です。ピープルファーストとは「自分たちのことは、自分たちで決める」という親や職員が決めるのではない『自己決定』からはじまった当事者運動です。今回の沖縄大会も当事者の方が主体となってやっています。(詳しくはhttp://pf-japan.jp/blog/を参照ください)

今年も福田さんと2人で沖縄に行ってきました。僕自身は2003年の滋賀大会から参加で3回目の参加です。例年は11月にピープルファーストの全国大会が開催されるのですが、今年は6月開催で、まだ梅雨の沖縄へ(結局雨はふりませんでしたが…)。羽田空港で飛行機の離発着の渋滞のため出発が遅れたものの(飛行機の隣の座席の方から、羽田は車の渋滞みたいに混雑するのよーとのこと)一路那覇までひとっとび。羽田から那覇空港まで3時間で到着しました。

少し遅れて那覇空港に到着するとたんハイビスカスが空港で出迎えてくれて、南国気分に浸りました。そんな気分に浸る暇もなく、お昼を食べ、すぐに会場の那覇市民会館へ。13:00から開会式があり、まずは大会の参加者の発表があり、今年の参加者は約450人で東京からは約130人の参加者でした(4人に1人は東京の人?)次に沖縄県知事・那覇市長・キリン福祉財団の方挨拶があり、個人的には沖縄県知事の稲嶺恵一さんの話しを楽しみにしていたのですが、保健福祉部の方の代理出席で、うーん、隣りの福田君もあくびをこらえながら話を聞いていました。それから、厚生労働省障害福祉専門官の話しがあり、障害者自立支援法についての話に。会場で話しが始まるとすぐに「自立支援法反対!」「厚生労働省はなんでこんな法律をつくったんだ!」「自己負担がとられて生活ができない!」「障害者自立阻害法だ!」と言った当事者の方の怒りを聞き、福田さんは話す人をしきりに振り返って見て、自分はというと、自分自身例えば国会・厚生労働省の前で座り込みの運動など障害者自立法の反対運動には参加してこなかったと強く感じました。厚生労働省の人は去年と同じ話しで「結局は国民のみなさんで決めたこと」で終始しました。話が終わり、自分自身は結局最後まで会場の空気と一体となっていない感じを受けました。

続いて第2部が始まり「カリタスの家(知的障害者入所更正施設、福岡県嘉穂郡頴田町」虐待事件についての話しがあり、施設で『熱湯のコーヒーを3杯の飲ませる』『ボクシンググローブで殴る』の虐待があったにもかかわらずその後県や国が責任をとらない、また、同時にその後施設の名称がかわっただけで、虐待は続いている、その話を聞き怒りがこみ上げました。また、当事者の方の話しで「必要な支援を受けて地域で生活していきたい、私たちは障害者にある前に人間としてあつかってほしいです」という声があり、会場から拍手があり、また地域でともに生きることを考えさせられました。

全体会が終了し場所を移して交流会へ。交流会は立食パーティーのような感じで、会場に入ると「みっちー久しぶり」と声をかえてくださった方がいて去年の新潟大会で知り合ったAさんでした。とても親しみのある声をかけてくださり、去年の大会の記憶が鮮明によみがえってきました。そして、去年1回話をただけで、こんなにも親しみを込めて話をしてくださるAさんは素晴らしいと思いました。それから、10人くらいの方から「お久しぶりです」と声をかけていただき、人との出会いの大切さ、喜びを感じました。交流会がスタートし、福田君は食事を済ませると名刺交換をすぐに始めていてあっという間に100枚の名刺を配っていました。自分もいろんな方と交流をして印象深かったのが、韓国からいらしたBさんとの交流で「アニョハセヨ」と自分が話すと「こんばんは」と肩透かし。サッカーW杯ということもあり、自分が「コリアンサッカーグレイト」と話すと笑っていました。また、今回初めてピープルファーストに参加した新潟からされたCさんは会場の端のほうにいて、支援者と当事者の方といらっしゃっていたのですが、なかなか交流は難しいという感じで、自分から声をかけると、照れながらも自己紹介をしてくださり、自分も新潟に住んでいたこともあり、話しにがふくらみ、緊張はいつのまにか解けていきCさんの笑顔が見られました。

交流会終了後、Aさんから飲み会のお誘いがあり、福田君を誘いAさんの泊まっているホテルへ。Aさんと一緒にきている仲間とあれこれはなし、おいしい古酒を飲んでいるうちに那覇の夜はふけてゆくのでした。

(三谷)

新潟県小千谷市への少数仮設訪問と活動報告

5月2日〜5日まで、小千谷市の少数仮設を回ってきました。

今回は高齢者の方々には、食器洗い用のせっけんと食器洗い用のアクリル毛糸を配布。ペットを飼われてる方々には、犬の餌(ドライ・缶詰・スナック)を配布。昨年の12月の時と比べると大分引っ越された方が多かったです。

小千谷市の仮設を出られた方々は、復興住宅、市営住宅、村へ帰られた方々、村に帰らず町に家を建てられる方々と様々でした。空きになった仮設には新たに建替えのために仮住まいとして借りられてる方もいました。

仮設にまだいる方々から、まだ帰れない状態だけれど段々人が減ると防犯的に寂しいと言うか夜が怖いと言ってました。例えば、時水仮設では18戸に4家族しか住んでないのが現状。今回で6回目の仮設訪問。回ってみた感想は高齢の一人暮らし・二人暮らしの方々が目立ちました。多分、今までは仮設にも大勢の方がいらしてて目立たなかったのかもしれません。年金生活者も多いと思います、新たに家を建て直す事もままならず、これから大変だろうなと感じました。

日中は仮設から山菜を摘みに山へ入り、ぜんまいを庭先に干してある家々・仮設が多く、夜にはてんぷらの揚げる匂いが漂ってました。高齢の方々にささやかな物を寄付し、お返しに山菜を頂きました。昨年も5月連休に仮設回りをして山菜を頂き、山菜に魅せられて再び今回来ました。ぜひ皆さんも、5月連休に新潟へ山菜を食べにきませんか? こごみ・ぜんまい・山うど、わらび、山のアスパラ、つくし、うるい、とう菜(菜の花)、その他いっぱいありますよ。まだまだ自然が残ってます。

今回は5月3日に小千谷市の白山仮設闘牛場にて初めて「牛の角突き」観戦してきました。新潟の闘牛は家の玄関の中で一緒に飼われてる家族同様。体重約1トンの巨体がぶつかり合う迫力満点の牛の角突きは小千谷の伝統的行事。角打ち、鼻押し、横打ち、鉄砲突きなど、16手の技が人々を興奮で沸かせます。

牛の角突きは、徳川時代の文豪、滝沢馬琴の書いた「南総里見八犬伝」に記述があるように、地域の伝統として長い年月をかけて守り継がれてきました。

越後の闘牛は、引き分けが原則。興奮した牛に綱をかける勢子の技術も見物です。

今年度は震災復旧になった「小千谷闘牛場(小栗山)」で本場の迫力。

今回、小千谷市でボランティア活動してる友人と出会い共に塩谷へ連れていってもらいました。ここは3人の子供達が被害にあった地区です。住民・ボランティアの人達で古民家再生に力をいれてます。

やむを得ず村を離れる事になってしまった人達も気軽に立ち寄れる場所を残したい。塩谷に想いを寄せてくれた多くのボランティアの方々もまた立ち寄ってもらいたい。地域のコミニティーを維持し、苦境の中から生まれた人と人との「絆」を広げ、塩谷に復興の種を蒔く。それが…「芒種庵」

この会は、小千谷市塩谷地区のコミュニティー(震災により転出した他の特に拠り所としたい)に活用したく、被災をうけた、茅葺屋根の民家を、名称「芒種庵」とし修復、保存、運用をしていく事とする。

屋根の下の3つの黒丸は、地震で亡くなった3人の子供を表しています。

天から村人達を見守ると言う意味があると同時に大地に蒔かれる「種」を表しています。塩谷の自然をイメージ。塩谷の自然と蒔かれた種から育った植物にみたてて、「芒種庵」の文字を重ねています。

(○=太陽、屋根に当たる部分は木々、3つの●=「川」という文字に見立て、塩谷の水をイメージ、芒種庵の文字は花を、_は土を表しています。)

古民家の形を。そして、全体として見て古民家をイメージさせる物となり、「芒種庵」その物を表しています。

(高瀬)

優子さん お茶最後のおけいこの日

5月の連休の後半、久しぶりに優子さん、薫さんとともに家子さん宅を訪れた。

昨年の秋ごろだっただろうか、家子さんから、優子さんのお茶のお稽古を卒業ということとし夏休みの間に考えてほしいという話をしたが、その後連絡がないと言うようなメールが来た。

早速優子さんに電話を入れた。その時の彼女の言葉が忘れられない。「首です。家子さんのことは話したくありません」とその後は話そうとはしなかった。後日映画を見た後もう一度聞いた時、同じことをいった後「くやしかったから話しませんでした」といつにない固い態度に戸惑った。

後日、家子さんに話を聞いた。「お茶を始めて9年間。次の段階にいけないかと思うが、正確でないし何度言っても直らない。お稽古がだれている。今のまま続けていっていいのか考えあぐねている。一度お休みをした方がいいのではないかと思い卒業と伝えた」とのことだった。

ある世界を形式として表現していくようなお茶を優子さんが理解しているのかといえばなんともわからない。彼女にとって大事だったのは「お茶をやってる」というステイタスだったのかもしれないとも思う。家子さんの指導は理解に至らず厳しさだけを際立って感じるということになったのかもしれない。期待に応えられないことが分かっていて、しかし彼女の傷ついたプライドが激しい言葉として表れたのではないだろうか。

家子さんの考えをあらためて伝え、どうするか聞いたら「家子さんと話せなくなりました。辞めます」と彼女は答え、お礼の挨拶に行くことを約束した。

最後のお手前をする優子さんは、最初はロボット動きで緊張しきっていた。けれど何度かお手前を繰り返すうちに動きも滑らかになり家子さんに時々指示されながらきちんと通しでお手前を終えた。優子さんの茶せんで抹茶を立てる音とその緑の美しさを見ながら、ああ、彼女はこのお薄茶のお稽古を卒業したんだなと思った。一年近くのお稽古の中断の中で正確なものではなかったかもしれないが9年間のお稽古で身につけた所作だった。

家子さんが卒業といったのも、「辞めます」といった優子さんも間違いではなかった。

その時期を迎えていたのだ。

家子さんから優子さんにお茶のお稽古を誘われたとき、彼女の行き場所、世界ができることを私たちは喜んだ。しかし、その指導の毎日はお稽古の時間を守ること、お稽古料を毎回もってくること、白の靴下とベルト、袱紗を忘れずに持ってくること等をめぐってのせめぎあいであった。家子さんは正面から向き合ってくれたと思う。だから、お稽古がだれてしまうことを認めることができなかった。

障害をもった人のお稽古ごとにもジョブが必要だということを優子さんのことで私たちは知った。

優子さんも、これからまた別のお稽古事をはじめだし、趣味が増えていくその一つに「お茶ができる私」があればいい。

「ありがとうございました。」

優子さんは手をついて家子さんにお礼の挨拶をした。

(伊東)