2003年8月の柿のたねニュース

夏合宿報告〜たまごのなかから〜

柿のたね恒例の夏合宿、今年も無事終了しました。

参加者はなんやかやと30名弱、そこそこの団体さんでした。今年は直前まで暑い日差しにお目見えできず、みんなで「きっと寒くて海に入れないよ」とか「それでも子どもは入りたがるよなぁ、ふぅ」などの会話が飛び交っていました。

ところがどっこい、いざ現地に着いてみると、初日こそ少し風が冷たいものの日増しに天気はよくなる一方で、最後の日はピーカンの真夏の陽気。海水温も思いの外あたたかく、かえって照ったり曇ったりのちょうどよい日差しが、毎年のように犠牲者を出す『焼き過ぎ』を最小限にとどめていました。それでも泣いている人はいましたが…。これも実行委員たちの日頃のおこないのよさなのでしょうか?さすが晴れ男を自認する洋志くんは、その意味では大したものです。今回もしっかりと海の幸をゲットもしていました。

それにしてもやっぱり夏合宿は、ただの参加者として遊んでくるのがいいよなぁ。10年以上実行委員を続け、近年ようやくその任を解かれた私としてはつくづく実感します。とくに子どもたちがわんさか参加していた頃は安全に気を使い、うるさ方の大人たちをあしらいつつ、イベントも盛り沢山、本当に大変でした。

そんなお気軽気分で参加していた2日目夜のビンゴ大会、なんと1等、2等を島田さんと私で独占!なんかごめんね場の空気が読めなくて…賞品ゲット、「えっ、おまけの賞品があるの?もちろんいただきます」。それは昼間のイベントで子どもたちに配ったタマゴの形をしたケースの中におもちゃが入っているものでした。ビンゴ大会が一通り終わったところで、洋志くんから「ではタマゴを開けてください!」そして中から出てきたのは一枚の紙切れ、そこに書かれていたのは『来年の実行委員はあなたです!』「しまった、やられた」と後悔しても、もちろん後の祭。せっかく実行委員から外れるようになって喜んでいたのに…、仕方ない実行委員拝命しましょう。

孝広くん、よろしくお願いします。

(チェリー)

ということで、以下は今年の合宿後の実行委員長の回顧日誌です。 

7月26日(土)〜28日(月)に静岡の下田・田牛海岸に行きました。伊豆急下田からタクシーで約20分。11時に宿に到着。着替え、泳ぐ前に準備運動をします。お昼はカップ麺を食べました。

宿でご飯を食べず実行委員長になれない。(編注 偏食傾向の孝広くんが毎回みんなに言われるセリフ)

カップ麺食べた後ジュース一本飲んだ。宿に戻ったらシャワーを浴びて夕飯の前にお風呂に入る。

大人28,000円長沖さんに貸してください。(編注 自分の参加費を長沖さんに渡すという意味?!)

夕飯は煮魚、唐揚げ、えび、酢のもの、ひじき、刺身等。食べた後生ゴミに捨てる。終わったら花火をやります。

翌日は起床、朝食、海岸へ出発。今日のお昼はカレー。すいか割りをしてみんなで食べます。宿に戻ってシャワーを浴びてお風呂に入る。今日の夕食はさばの甘露煮、串カツ、かに、刺身、さざえ、ご飯など。終わったらビンゴ大会をやります。ビンゴが終わったら商品がもらえる。昨日雨で歯ブラシがない!ない!と言われた。(編注 前日泊った柿の木ハウスに忘れたのか、歯ブラシがないと大騒ぎしていた孝広くん。でも雨とどういう関係が…)

翌日は起床・朝食・帰る準備・海岸へ出発。お昼はみんなでオニギリを食べます。

食べた後みんなで記念写真をして宿へ出発・東海バス・下田駅に到着。特急『踊り子112号』東京行きに乗って横浜で降りて東急東横線で学大で解散、天狗で打ち上げをやります。タクシーで家へ帰って小遣い帖を付ける。

(福田孝広)

東京都心身障害教育検討委員会中間まとめの抱える課題

8月12日の毎日新聞朝刊に「LD調査は『人権侵害』と複数校が保留 東京都」の記事が掲載された。都教委が都内の全公立小中学校を対象にLDなどの実態調査を指示したところ、チェックリストの項目に「独特の目つきをする」などの客観的な判断が困難な項目が多数含まれていて、人権侵害の恐れがあるため複数の学校が実施を保留しているという内容だ。記事の中で都教委は「都は学習・行動面に支障がある子どものための『特別支援教室』の設置を検討している。調査はその資料。LDなどの子を特定するものではない」とある。「障害児を普通学校へ・全国連絡会」は「個人情報が漏れる可能性も否定できない」として都教委に即時停止を求めている。

前回、東京都心身障害教育検討委員会の中間まとめの概要を紹介したが、その際、専門家や学校の意向のもと「特別支援教育」を強いられる危惧があるのではないかと書いた。今回の「LD調査」にもその傾向が見受けられる。よくわからないものに対して「特別支援」という名目で通常学級からピックアップし、子どもたちの分離が進むことになるのではないか。それでは新たな障害児がつくられることになってしまう。他の子どもたちは「違い」をより一層意識付けられ、離れる時間が増えることで理解への溝が生まれてしまう。それを教育指導のもとに当事者や親の意向とはかけ離れたところで押し付けられていく。

ノーマライゼーションとは同じように社会の一員として社会参加し、自立して生活できる社会を目指すという考え方だというのなら、その社会性を育んでいくのはいっしょに同じ空間で学んでいくことに他ならないだろう。もし一人一人のニーズにあった教育支援を進めようというのなら、それぞれの選択肢に対してメリット、デメリットの双方を説明する責任がある。「特別支援教室」ならば個々の能力を引き伸ばすことができる可能性がある反面、通常学級から離れることで社会性を失う部分もある。通常学級の場合他の子どもたちといっしょに育つことで獲得するものはあるが、現状では個々の能力の引き伸ばしという点では限界があるなどだ。その上でどちらを選択するかは本人がまた親が決めるというのが大前提なのだと思う。

一方で、通常学級の現場では障害児に対する理解の欠如が問題となっている。これはこれまでの分離教育による結果とも言えるが、障害児に対して「何ができない」「どのような不利益がある」といった否定的な考え方が大勢を占め、「どのような活動ができるか」「どうすればいっしょに参加できるか」といった共同性はあまり見えてこない。教員の障害児に対する見方は当然のようにクラスの子ども達にも伝わっていく。

教員や学校の障害児に対する理解が乏しければ、通常学級が選択の条件に当てはまらなくなってしまう。限られた条件の中では、真の選択はできない。教員研修等を積極的に進めていくなかで、通常学級でともに学ぶことを基本とし、その中で特別支援のあり方を探っていくのだとしたら担任の複数制や各学校における設備の充実など同一空間の中でできる形を模索していくべきだと思う。

理解はやはりともに生きていくことの中からでしかうまれてこないのだから。

(櫻原)

普通学級に通う障害児の親の会からの「声」≪絆≫

今からもう6年近く前、上の子の幼稚園入園直後に幼稚園の先生が「同じクラスに障害を持ったお子さんがいらっしゃるのでよろしくお願いします。」とおっしゃいました。その時なんとお返事したかは覚えていないのですが、「そうなんだ、障害ってどんな障害なんだろう。お母さん大変だろうなあ。」と思った事だけ記憶しています。それがゴウちゃんと我が家の出会い。

よく泣いていたなぁ、初めの1年間。お母さんがつきっきりでバギーで送り迎えをし、周りの子ども達もゴウちゃんママは先生だと思っていっぱい甘えていたよね。右も左も解からない3歳児の集団生活はゴウちゃんにとっても我が子にとっても、あったかーいベテランの先生方に支えられてスタートしました。2年目はゴウちゃんの世話をする先生が配置され母子分離に挑戦しました。最初の年からゴウちゃんママとはバザーの係が同じになったり、だんだん話もするようにはなったけれど、だからといって障害の事に触れてはいけないような気がしていたし、私自身が我が子もまだ小さく何をどう手を差し伸べていいのか全く見当もつきませんでした。きっと周りのほとんどの人が同じ気持ちであったと思います。3年目、若い、子どもが大好きという伝道師の先生が教会に配属され、その方は幼稚園の保育にも関わってくださいました。この事はゴウちゃんのみならず、子ども達にとってすごく嬉しかったと思います。

その年の5月、明日が遠足という晩にゴウちゃんママから何だかとっても遠慮がちな電話がかかってきました。「駅の階段で豪太のバギーを持ってもらえる?」「ウン、もちろんいいヨ。他には何かないの?」「それだけで大丈夫。」初めてでした。ゴウちゃんの事で何か頼まれたのは…。その頃まだ学芸大学駅にはエレベーターがなく、自分もついこの間まで子どもを抱いてベビーカーをホームまで上げるのは大変な作業だったのです。私に電話をくれたのは何だかちょっと嬉しかったけれどいろいろ考えているうちに今度はすごく情けなくなってきました。何故言わせる前に気がつかなかったのか、よく考えてみれば現地集合の遠足に集合場所までは先生がいらっしゃるはずもなく、すると当然お母さんが一人でそこへ連れていく事になるのです。本当に恥ずかしい事ですが、そんな簡単な事さえ気づかず、解かろうともしなかったのです。大変だろうなぁとは思いながら、自分にはどうしてあげる事もできないと勝手に決めて、悪気はないものの積極的な関わりを持とうとはしなかったのでした。結果的に『なーんだ、そんな事』で「助かったワ、ありがとう」などと言われてしまい、この些細な出来事は私にとって衝撃的な事件となったのです。私がゴウちゃんと関わるようになった原点です。この時も私は周りの友人数名に何となくどうしていいのか解からず、一緒に駅の待ち合わせ場所に来てくれるよう頼みました。声をかけた相手はみんなまだ5歳児の手を引き2人分のお弁当に水筒と大荷物でしたが、誰ひとりとして「私はできない」と言った人はいませんでした。それどころか私の荷物とゴウちゃんママの荷物を持ってくれるは、子どもの面倒は見てくれるはで、連帯感のような意識まで生まれたのです。

自分がそうであったからといって、全ての人が同じであるとは思いませんが、みんな障害児や障害者に接した経験を持たないと何をどうしたらいいのかが単純に解からないのだと思います。最初の出会いから2年以上が経過し、鈍感な私もやっと「私にもできる事はあるんだ」と気づかされたのです。

(はやま のりこ)

豪太くんの学校介助を支える「マナの会」代表の羽山さんが豪太くんとの出会いのエピソードを寄せてくれました。「マナの会」は彼が通っていた教会幼稚園のお母さんたちの集まりで、羽山さんの呼び掛けにより誕生しました。『あなたは一人じゃないのよ』そんな声が聞こえてきます。

次回はゴウちゃんママからの声をお届けします。