2000年9月の柿のたねニュース

柿のたね14周年報告

去る8月27日、柿のたね14周年の会を開催しました。毎年8月末の日曜日に行うこの恒例行事も14回目を迎える事ができたかと感慨を覚えつつ、午後1時開場、1時15分に孝広さんの開会の挨拶から始まりました。(出席者は35名。)

最初に基調報告

14年間の来し方、15年目を迎え柿のたねのこれからの歩みに関して、柿のたねの活動への取組み、財政体制の充実をはかる取組み等、さまざまな課題についての報告がなされました。そのあと

  1. 無着邦彦介助者会議報告
  2. 廃品回収報告
  3. 恭子ちゃんと泊まる会
  4. 市・バザーについて
  5. ガレージセール
  6. フリーマーケット・ホームページ報告
  7. 金曜倶楽部
  8. パソコン教室
  9. 保護就労について
  10. まひるのほし上映会報告
  11. 財政報告
  12. 99年度イベント報告
  13. 2000年度のおおまかなスケジュール

と、13項目についておのおの担当者が報告しました。(14周年の栞参照)

以上の通りですが、柿のたねの活動の数々は14年間の歴史を重ねた活動の成果だと評したいと思います。

10分休憩の後、当日講師にお招きした渡部淳氏(がっこの会、子どもの相談室「風の谷」主催)に「どの子も地域の学校へ」を提唱して30年、その30年の歩みに則して話をしていただきました。

この30年間に作ることができたのは、人のつながり―全国の人々とのつながりができた?―

では、できなかったものは―全国に通用するような反差別の組織は作れなかった―

だが、たった今、目指しているものは、どこの学校でも試行錯誤をみんなができるように、みんながそれを交流できればいいと思っている、学校の中の人々は試行錯誤はなかなかできにくい、それを応援したい。人間とは、動けない人も含めてみんな、社会的な人間なのだ。象徴的に言うならば寝たきりの子も学校へ行ってみんなの中で寝ていてもらいたい。これは願っているだけで手にしたことはないが。

「学校に行くということは、みんなの中に入っていくことが目標なのだ」この考えを機軸にした「がっこの会」30年間の活動経過を話されました。

せっかく渡部先生が来られたので、今学校に子どもを通わせている人(障害があってもなくても)、学校に障害児の付き添いとして通っている人等、それぞれの立場の人に今、思っていること感じていること等を話していただきました。今まで柿のたねに来たことのない新しい顔ぶれの方にも現状を話していただきました。

みんなの話の内容は後日まとめますがさまざまな課題を持った人が交流できた会となったと思います。

新しい人の参加、その交流の中身は今後に向けての「柿のたね」の活動の糧とできればと願っています。

「がっこ」第357号への「柿のたね14周年」の集い掲載して頂いたがっこの会に感謝しつつ邦彦さんの終わりの言葉で会は終了しました。

閉会後は、6時より学芸大「天狗」にて故梅根さんの偲ぶ会をかねて、14周年二次会が夜遅くまで続けられました。

(無着麗子)

柿のたね14周年を終えての素直な感想を少々

いままでの、一味違った14周年の集い。何が違うか?一番違うのは参加する自分自身の姿勢なのかもしれないが、とにかく一本張り詰めた空気がそこにはあったように思う。

 年月が経つにつれ、報告事項が増えているということは遅々としてはいるが確実に活動の発展をしていることに他ならないのかな?とまじめに思ってしまったりもするが、14周年に来て頂いた同じように「地域で共に」という考えをもった方々の現状報告を聞くたびに「ほうほう」と心の中で唸ってしまいました。自分自身がその「地域で共に」というものをチョビットだが、持ちながら活動しているなかで、改めて見つめ直すいい機会となりました。というのは、それぞれの立場で、いろんなやり方があるんだぞ。と、言われた気がします。

そして、講師で来ていただいた「がっこの会」の渡部さんのお話がとても楽しく聞けました。なにがって?それは「遊び心を大切に」ということを随所に聞けた14周年でした。

そうです、心に余裕を持つ事がいかに大切か。そして物事をいろんな角度から見る事が、いかに大切かを身にしみて聞いておりました。

(かないひろし)

YUKOのアメリカ生活!みなさんお元気で〜すか〜?

アメリカに、シアトルに戻って来てあっという間にもう1ヶ月が過ぎてしまいました。興奮で笑いが止まらなかった最初の日、英語が出てこず愕然とした思い、大切な、懐かしい人達との再会、何もしなくても着々と焼ける肌、美しい日差し、解放感、そして新しい人達との出会い…

前にシアトルに住んだ時、私はあるアメリカ人の白人のおばさんのアパートにホームステイをしていました。彼女が素晴らしい人で、私は心から彼女を尊敬し、彼女を通して見えるものが私の知っていたアメリカという国であり、私の生活でした。ところが今回ドイツ人の友達のアパートにしばらくおいてもらうことになり、火事で行き場を亡くしたネイティヴ・アメリカン(インディアン)の友達も一緒に住むことになり、ついでに毎日のように黒人の友達が訪ねて来る、という環境の中で私の知っていたアメリカはかなり壊されてしまいました。私は自分が実はほんの一部分しか知らなかったこと、そしてそれらはアメリカの綺麗な部分だったことを知ることになったのです。

アメリカでの話し方、食べ物、友達、よく行くレストラン、そして人種についての考え方。私が知っていたこれらのほとんどは白人社会のもの、又は白人が作ったものでした。私はアメリカにはそれ程ひどい人種差別はもう無いと聞いていましたが、警官の黒人に対する差別はひどいもので、ある州では刑務所に送られる黒人の数は白人の10倍にもなる、と聞きました。そのうちのどれだけの人が無実なのか、誰も分りません。ネイティヴ・アメリカンの友だちに、時に向けられる人々の冷たい視線や、私がよく行く喫茶店、映画館ではあまり黒人を見かけないということ、ましてネイティヴ・アメリカンを街中で見ることは皆無に近い、ということにも気付き始めました。(ネイティブ・アメリカンの人々は保護地区と呼ばれる場所に住むことをやむを得なくさせられているのです)

私の知る限りの白人の友人たちは、この人種差別問題を話し合うことに、そして彼等がやったことではない過去の白人の罪を責められることに疲れています。アメリカの国民は、どんな人種の人間であろうとも、選挙にでも、学校にも行く権利がある。好きなカフェに入って好きな席でコーヒーを飲むことができる。嫌な人もいるが、差別や偏見を持たない良い人達も沢山いる。それで充分じゃないのか?というのが彼等の意見で、この状況はしばらく変りそうにありません。

英語も、実は白人の英語こそが本当の英語で、それ以外のアクセントの強い英語は学ぶ必要もないと以前は思っていましたが、様々な種類の人たちが生活の中で、様々な形で使う英語に嘘も本当もないのだと今は思います。今は学校では決して習うことのできないであろう、形にはまらないドイツ人の使う英語、インディアンの英語、黒人の英語を楽しんで学んでいます。私は今のこの環境のおかげで自分の世界がぐんと広がったこと、そして今、学ぶことを心から楽しめることが嬉しくてたまりません。この先、又、どんな風にこの国について考えるのか、どんなことが待受けているのか、分らないけど恐れずに進んでいこうと思います。(もちろん気をつけながら)自分を信じて。私を支えてくれている全ての人へ、ありがとう!

GOOD LUCK ! SEE YOU !

(柿のたねシアトル特派員 YUKO HIBINO)