2000年2月の柿のたねニュース

学習会報告 誰もがともに地域で生きていくために

―地域援助について―

去る2月13日(日)目黒公会堂第1集会室において、講師に坂本光敏さん(社会福祉法人原町青年寮理事・地域生活援助センター立石寮寮長・東京都葛飾通勤寮寮長補佐)をお招きし勉強会をおこないました。

1時すぎから5時まで、前半は坂本氏のお話を伺い、3時過ぎ10分間の休憩をはさんで出席者20名自己紹介の後、質問を交えながらおのおのの意見交換をする会となりました。

現在の原町青年寮、葛飾通勤寮は昭和33年3名の学生と医師会の協力(親の会が母体ではなかった)によって学習塾と在宅障害者の通所、訓練、やがて入所施設運動へと進み昭和37年に通勤センター原町青年寮開設(無認可、通勤寮の先駆け)、一般就労への取り組み開始へと進む。

昭和52年法人化。東京都葛飾通勤寮の受託運営を開始。昭和53年生活寮開設。開始以後現在までに20箇所開設(食堂などの関連施設含む)80名の利用者があるそうだ。

坂本氏のていねいな話をここで要約しきれないがこのような組織ができあがっていくには、そもそもの出発点に利用者への援助の必要性があり、最初“場”を立ち上げて実践を踏まえて後、制度化を実現してきたとのこと。

知的障害者の場合――今の制度の中では入所施設を作る運動が主体的で親が援助すべきものという前提で施策がなされている。障害者本人にとって自立とは“普通”(よいも悪いもいろいろ、障害のある人もないひとも同じ)に生きていくことなのだが、その本人の“普通”が周辺のサポートする側にとってはとかく問題になるところなのだ。だが本人に障害があろうとも基本的人権はある。現状の福祉施策の問題点は、本来的に親の利害と子の利害は違うが、強制的に一致させられているところだ。だから前述したように親が本人を見られなくなったらポーンと施設に入れられることになる。

故に、親が元気なうちに親から離れて自立〜自己を確立した生活ができるように側面からサポートをするのが地域生活援助の理念である。

サポート――はじめ自分たちでやっていくきっかけを作る。自分たちでできていても抜けているところがある。例えば食事のこと(バランス良く食べる等)部屋代の支払い等代行しておこなう、金の使い方がおかしいときは注意したりするが、しかし本人の意思が反映されねばならない。民間アパートを借りる時立石寮が保証人になり、住んでいるところの周囲との調整も必要…などなど。本人ができることできないことを自覚し、援助する側も意識し後押ししていくことだという。

後半出席した一人ひとり立場が違い思惑も違う人たちが集まったが、障害者の親たちだけでもおのおのに考え方や価値観の違いが見られた。勉強会の後、学芸大の“天狗”での二次会でも活発に話が弾んだ。

この勉強会を始める前に特に障害者の親に呼びかけをしたり、柿のたね通信で予告宣伝したりしたが今一つ関心を寄せる人が少なかった。昨今福祉施策の様々なかたちでの後退が危惧されているが、障害者自身やその親たちがもっと研究、勉強の必要ありと思っている。

障害者が地域で自立生活をしていくのにバックボーンとなるものをどのようにすれば作れるのか、雲をつかむような思いであったが、それはまずは実践の積み重ねから始まることなのである。

(無着麗子)

さりげないやさしさを…山田 圭さんありがとう

悲しい別れが続いた1999年を送り、決意も新たに迎えた2000年の初頭に突然届いた訃報。心臓発作による突然の死。あまりに唐突過ぎて言葉を失い、あたりが真っ白になった出来事でした。山田圭さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

山田くんと出会ったのはいつ頃だっただろうか。当時彼は東大の学生でボランタスという障害者の介助を活動の中心とするサークルを主宰していた。くにひこ企画のメンバーで駒場祭に出掛け、介助者募集のチラシ配りをしたのがきっかけだった。

邦彦くんが家庭内でストレスを爆発させ、初めて親元を離れて生活した一ヶ月の合宿の時に、介助のローテーションを支えてくれたのはボランタスのメンバーだったし、柿の木ハウスで自立生活を始めてからも定期的にやって来る山田くんは、住人以外の介助者としてとても重要な存在だった。邦彦くんは山田くんが来る日をとても楽しみにしていて、彼流の歓迎ぶりを発揮しよく困らせたりもしていた。いつしか「山田くんいつ来る、どこ帰った」は邦彦くんのお気に入り語録に加わり、山田くんが亡くなった後もしばらく続いていた。今でも時折「山田くんどこいっちゃった、何色になって死んだ」などと怒鳴りながら、少し切なげな表情を覗かせている。葬式の時に山田くんの顔を見て、突然笑い出したのも邦彦くんなりのレクイエムなのだろう。

山田くんは交通関係に造詣が深く、特に障害者の公共バス乗車の問題について熱心に活動を続けていた。柿のたねでも山田くんを講師に招いて、東急が導入した低床バスについての講演会をしたこともあった。ドイツに出掛け、ヨーロッパの交通事情について見聞きした話を熱心にかつ訥々と語ってくれたのがついこの前だったような気さえする。その時に作ったアイロンプリントのTシャツは少し剥げかけているが、邦彦くんは先日思い出したように引っ張り出してきていた。

障害者の自立生活や介助者との関係を題材にした学習会を柿の木ハウスで開いたり、ボランティア論を語り合ったこともあった。柿のたねの人間関係に終始する私にとってはとてもありがたく貴重な存在で、どうしても邦彦くんや他の仲間を視点に考えがちになる部分から一歩離れて客観的に話す事ができ、また山田くんが聞き上手なのをいいことにあれこれと投げ掛けるテーマについて、嫌がりもせずに応えてくれる人だった。最近は日常に埋没してあまりじっくりと話す事ができなかったのが残念でならない。これからもいろんな話をしたかったし、一緒に考えていきたかった。

柿のたねができてから、貴子さんを送り、梅根さんを失い、鳥沢さんに別れを告げたばかりなのに今また山田くんとの早過ぎる別離。自分の中にある虚無を抱えながら生きるのは正直辛い。不謹慎だと思いつつも、残される者の身にもなれよと思ってしまう。やり残したことへの想いや無念さはあるよな。肩代わりはできないけれど目指した先が同じだということは確信している。俺は俺なりのやり方で続けていくつもりだからすぐにはいけないよ。のんびりと待っていてほしい。今度会うときは世の中こんなに変わったんだぜって言えるようにするからさ。

(チェリー)

山田さんから学んだ「やさしさ」を他の人に伝えていきたいです。

(福田)

2週間に一度の付き合いでしたが「不変の強さ」を山田さんから学んだ気がします。年末に一緒に行った浅草。昨日のことのように思い出せます。「今度は2月の休日に何か企画しましょう」と話していた矢先で、無念です。邦彦さんのよき理解者でもあった山田さん。いろいろありがとうございました。では、

(ひろし)

終わりました。まひるのほし上映会

まひるのほし関係と記載したフローピーがこの文章で一杯になる。昨年の5月準備会を設立し、今年の1月に再上映会で目黒上映会は終了した。この間に作った文章の量である。

この上映会は、私個人のこの映画への感動を基点として展開されてきた。人間が自己を表現したいと思う根底的な感情の姿をこの映画の中に見たことから始まった。「勝手に感動してろ!」と言われても仕方のない事を、人に呼び掛け、風呂敷を広げてきた。何故か?自己の思いは他者との関係で確認するものなんだということ以外言いようがない。

どういう風にそれを形にしようかと考えた。絵が好きな人でこじんまりとやるか、多くの人に見てもらう形でやるか。後者を選んだ。それは、多くの人に見てもらえる映画だという判断があったことは当然だが、自分たちの周り、たとえば柿のたねや柿のたねが連絡をとることのできるグループの範囲での動員的な展開はしたくないという事だった。閉じられたた関係での自己確認は沢山だ。同時に現在の柿のたねが持っている内部展開的な傾向の息苦しさを何とかしたいということでもあった。個人の想いから始まる活動として組み立ててみよう。それを不特定多数の人たちへの呼びかけを通して確かめてみよう。そういう出発であった。従って、最初から柿のたねの単位という形はとらずに、実行委員会形式で賛同者を募るという形をとり試写会を開く事から始めた。応えてくれる人たちがいた。「よし!風呂敷を広げよう」

立上げ資金を60の企業、労働組合、他団体に協賛してもらう形でつくることとした。電話番号でピックアップし、文章を出し、電話で1つ1つ確認していく作業は辛いものだった。職場で時々受けるこのたぐいの電話。戸惑い適当にかわしてきた自分の対応を今自分が受ける。電話をしながら、タバコはどんどん減っていく。企業のいわゆる「メセナ」といわれている社会活動の実態を知ってみたいというものもあった。市民の活動が行政の補完物ではなく、自立した力を持っていくためには活動の普遍性に対する理解を得ていくしかない。「世間様の胸を借り、自分たちの活動を客観的に知っていく始まりにできたら」ということであった。そうした中で、いくつかの企業が応えてくれた時は本当に嬉しかった。企業・労働組合・団体による22万円の協賛金は、ポスター、チラシの主な資金として活用された。映画の内容もあってカラーのものを作成した。そのビジュアル性は上映会の大きな集客力になり、アンケートの設問の映画をみる動機として、「工房絵」の川村さんの作品を使ったポスター、チラシの絵に引かれたからという人たちも何人かいた。

 今回、柿のたねが絡んだ活動としては初めての経験であったが、目黒区の後援をとることとした。公的施設への情宣、商店街の店周りをする時、お墨付きという力を改めて知った。後援を取った事で見えてきたことがある。目黒区の作業所へのチラシ配布を押さえられた事だ。理由はある政党を応援する保母が保育所で知事選の際選挙活動を保護者相手にやったということだった。これは、私たちは預かり知らない事であり、こうした事を理由に、市民の作業所等への働き掛けを制限するということは許されない事である。障害福祉課長との交渉の結果、課長名で情宣の依頼をやるということで話がついた。また、交渉の中で、作業所に外部から働きかけがはいったのは知事選以来、まひるのほしがはじめてだとのことだった。福祉の場の閉ざされた世界の一端を垣間見る想いであった。福祉の場に今一番問われているのは、一般社会の当たり前の感覚だと思う。地域、社会に開いていく活動を進めていく事の必要性を改めて感じた出来事だった。

目黒区とのやり取りの大きなものは、ご存知映写機の故障に伴う再上映会だ。このアクシデントには本当に参ってしまったが、この問題で一番感じた事は、行政の外注制度の無責任さであった。臨界事故の無責任さと同質のものを感じた。上映会当日、障害者用のトイレにサニタリーボックスがない。福祉センターとうたっている所にである。そして、その指摘に対する職員の対応の無自覚さ。下請、外注、臨時雇用と言う問題にだけにすべての原因を帰結する事はできない行政というものの枯渇したあり方を感じる機会になった。動いてみて知った事である。

10月30日の上映会で、3部併せて450名、1月15日の再上映会で約100名。合計550名の方たちがこの映画の上映会に足を運んでくれた。インタビューも、ナレーションもない映画に、途中で席を立つ人たちがでるのではないかと実は不安だった。しかし、アンケートの意見欄も、障害者のアートへの素直な感動が伺え、特にシゲちゃんの青春の咆哮は人気抜群であった。また、20代の若者たちが全体の23%をしめ、若者らしい素直な共感を綴ったものが多かった。

当初、思い描いていた事から実際はどんどん膨らみ、そして具体化していったが、ほぼ成功したといっていいのではないかと思う。

私個人としては、この八ヶ月あまりの活動の中で実際疲れた。その大きな理由の一つとしては、自分の勝手な想いでやっているのだから責任を取らなくてはならないという気負いだった。一人柿のたねでの作業が深夜に及ぶ事も度々であった。成功するかどうかの重圧もあった。そうした中で、自分を支えていたのは、前に進みたいという強い思いと実現に向けて動く充実感であった。「おつきあい頂いてありがとう」正直な気持ちである。それに対しある人から、意見があった。「確かにあなたに負う部分は大きかったが、自分たちには自分たちの上映会に対する想いはあったのだ」と。その通りである。それがあるからこそ私自身は前に進む事ができたのだ。見えなくなってしまっていたものがある。最後の実行委員会、この映画に感動したという人も、芸術派ではないのでという人も、みんなで力を合わせて一つのものを作っていく事の手応えというようなものが感想として出された。実行委員会の基点は実はそこにあったのだ。

上映会でできた若干の黒字で、まひるのほしの上映会を、福祉関係の文化活動を企画する場合の立上げ資金の一部として援助するためのプール金管理委員会を発足する事にした。個人的には、健常者の文化活動へのご招待ということではなく、障害者自身の文化活動に接する機会をいろんな人が立ち上げてくれるとこのお金も生きるなと思う。

ともあれ、これでまひるのほしの上映会は終わり、実行委員会は解散する。

骨休みの旅行に2月の能登にと娘を誘った。

映写機が故障し、会場の事務所で区側と交渉していた時である。娘がその場につかつかと入ってきて、「私の大事な人が一年かけて準備してきたんだ。あやまれ!」と言ったのである。この映画に特別関心を持っていたわけでもなく、準備で奔走する私の毎日も日常の一環としてしか見ていないように思えていた彼女の激しい抗議に心底驚いた。「スゲェー」と思うと同時に彼女の熱さが嬉しかった。感謝の気持ちである。

(さえ子)