夏は、今いる所を飛びだして、旅に出かけてみたいという衝動にかられる季節でもあります。人間だけでなく、鳥や魚、獣も旅をします。何代にもわたって養殖で育てたサケの卵をふ化させて、その稚魚を川に放つと、天然のサケと同じように海に下り、成長して再び川に戻ってきて産卵し、命を終えるそうです。生命を産み出すという大切な時には、遺伝子のいちばん深くに刻まれた記憶に従い、自分の相手を求め、自分の本来の姿を求めて、旅立ちます。
では、人は何を求めて旅をするでしょう。人の心の深くにも、遠く人の原初にまでさかのぼるような「旅人としての人間」という記憶が刻み込まれていて、旅において新しい出会いを求め、自分は何者かと考えるように迫ってくるのではないでしょうか。
聖書によると、世界で最初に旅をした人は、アダムとエバでした。二人は主なる神が取って食べるなと命じた木の実を食べたので、エデンの園から追放されて「旅人としての人間」の第一号になりました。神は二人を憐れみ、エデンから追い出して、荒れ野での骨折りと悩みの中で神と出会い、神の祝福を求める生き方を望まれたのです。
旅に目的があるように、人生にも命の完成という目的があります。私たちはそれを神の国と信じています。いまだそこに到着してはいませんが、神の約束してくださったかなたを望み確信しつつ、一歩一歩歩んでいきます。旅人の感覚は、途上感覚です。
神は、アダムとエバをエデンから追い出すときに、一枚の衣を作って着せてくださり、彼らの命を保護されました。旅は、人が神の恵みによって守られ、生かされている自分を発見する良い機会です。良い旅をする秘訣は、カバンを軽くしておくことだと聞きました。旅上手と旅下手があるように、人生にも旅上手と旅下手があるようです。
旅は、同じ旅をする人への思いやりと一体感を深めます。イエス様は、人生の旅の終わりに神の国に入れるかどうかは、旅の途中にある人たちへの態度で決まる、と教えてくださいました。「わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)
イエス様は、弟子たちを旅に派遣するに当り、祈っておられることを心にとめたいと思います。旅にあって私たちは祈り祈られています。あなたの旅に主の平安がありますように。(札幌教会牧師 斉籐忠碩)
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