諸悪の根源は我にあり

 

 托鉢中の僧の一団があった。坂道の途中、喘ぎ喘ぎ登って行く荷車を追い越そうとした。そのとき、一人の僧が列から離れてその荷車の後を押そうとした。その瞬間、その一団のリーダーとおぼしき者が怒鳴った。「お前は破門だ。」

 ある禅の研究者がアメリカに留学中、この話しをアメリカの学生にしたところ、この禅僧のリーダーの行為を理解する者はいなかったそうである。

 思うに、この話しを聞いたアメリカの学生たちは、聖書の善きサマリヤ人の話しとダブらせて、荷車の後を押そうとした修行僧の行為を肯定的に捉えることしかできなかったのだろう。この修行僧の自分が修行を必要としていることへの認識の欠如を見抜けないのである。

 心臓の手術を受けている最中の人は、自分の回りにどんなに困った人がいようと、助けることはできない。禅の修行をするということは、いわば、心臓の手術を受けるのと同じで、生きるか死ぬかの瀬戸際を通ることなのだということを、このリーダーは分かって欲しかったのではなかろうか。自分の命は今、生きるか死ぬかの瀬戸際にある。そのような厳しい状況を認識することなしに、禅の修行をしても無意味だということである。

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24)
 この「自分を捨て」ということは、まずは、「自分の価値観を捨て」という意味として捉えることができる。私たちがキリスト教信仰に生きるとは、まず、自分のこれまでもっていた価値観が打ち砕かれることから始まらなければならない。

 自分の中でその価値観の転換が起こったかどうかは、自分が被害者意識で発想しているか加害者意識で発想しているかを見れば分かる。総じて、人は、被害者意識をもって教会に来る。そこには慰めを求める姿勢しかない。勿論教会はその求めに応えて、その人を慰めてくれる。だが、教会のその人への本当の関わりはそこではまだ始まっていない。その人の加害者性に気付かせることから、教会の本当の関わりが始まる。このとき、多くの人がつまづく。被害者としての自分を慰めて欲しいと思っている者にとって、お前が加害者だという宣告は受け入れ難い。

 自分にまつわる諸悪の根源は自分にある。そのことに気付いたとき、十字架が救いとなり、人生の新たな立脚点となる。マラナ・タ 来たりませ 主よ。


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