み言葉に養われる

地区教会の牧師による聖書からのメッセージ

(地区月報「るうてる4」よりの転載です。毎月更新します。)


 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
  わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。
    わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、
 神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」 
(ヨハネの手紙 4章11節〜12節)

『むかし、むかしある国で、人間が牛に見えるという恐ろしい病気が流行りました。沢山の町や村でこの病気が流行り、病気にかかった人たちは、お互いに牛に見える人間を食べようと思って殺し合いました。しばらくして、この病気には。ねぎが良く効くということがわかり、ひとりの男が自分の畑に一生懸命ねぎを植えはじめました。男は沢山ねぎを植えて、病気にかかった人々に食べさせ治したいと思っていたのです。しかし、この男の村にも病気が流行り始めました。男は一生懸命畑で働いています。男の畑の近くに、病気にかかった人たちがやって来ました。病気の人たちは、「畑の中に牛がいる。殺して今夜はご馳走にしよう」と言って、ねぎを植えた人の畑に入り込み、男を殺してしまいました。殺した人たちは、牛だと思ったものが人だということに気づいて、自分たちのしたことを悔やみ泣きました。そして、彼らは植えてあるねぎを食べ、病気が治りました。』

 これは、一昨年の国際少年少女キャンプで聞いた「ねぎを植えた人」という韓国のお話です。この物語によって、人がお互いを「自分と同じ人間」として見ることが出来なくなった時、私たちは大きな過ちを犯してしまう危険性があるということに気付かされました。また、大きな衝撃や強い怒り、深い悲しみなどにによって心が閉ざされる事もあるということに。

 聖書が語る「愛」は時としてしつこく、耳障りに感じる事があります。またきれいごとのように感じ、素直に聴けないということもあるのではないかとも思います。しかし、聖書は繰り返し、神は全ての人が生きるようになるために、独り子キリスト・イエスを通してこの世界に「愛を示してくださった」と語り続けます。

 私たちはこの愛を知らされることによって「ひとりの人間としてあなたは生きることが望まれている、生きることが喜ばれている。」という神さまからのメッセージを聞くことが出来ます。また同時に「あなたの目の前にいる人も、周囲にいる人も、遠くにいて見えない人も、この世界に生きているすべての人も同じである。」というもう一つのメッセージにも気付かされてゆくのだとも思います。「あなた」も「わたし」も一人の羊飼いによって養われている、一匹の羊にすぎない、しかしかけがえのない一匹であるということに。

(札幌北教会牧師 岡田 薫)


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