161.「N牧師への手紙(その2)」

 先生は、発題の終わりに、日本福音ルーテル教会の一牧師として一番したいことは何かという質問に答えて、「日本福音ルーテル教会は、崖から落ちてけがをした人を助けることはするが、人が崖から落ちないように柵を造ることはしない。自分は、崖の上に柵を造って人が落ちないようにする仕事をしたい」とおっしゃいました。私はここに、先生の発題に私が感じた福音の捉え方の「浅さ」が端的に現われているように思います。

 即ち、人間は、例え崖の上に柵があっても、その柵を壊してでも人をその崖から突き落とすという他者に対する殺意をもっていますし、また、その柵を乗り越えてでも崖から飛び降りるという自殺願望をもっています。人間の現実がこうですから、例えどのように頑丈な柵を造っても、そのことでは人間の問題は解決しないのではないでしょうか。このような人間そのものの問題を、その人間一人一人に即して解決していかれたのが、イエス様の唯一の働きであったように、私には思われます。

 そもそも、先生が言われる崖の上の柵とは一体何を指しているのでしょうか。その譬えを聞いたとき私が思いましたのは、先生が発題の中で、「小さき者との連帯」という言葉を遣っておられることや、先生が日頃取り組んでおられる社会問題のことを思いながら、「崖の上に柵を造る」ということは、「小さき者」といわれるような人が生じてこない社会の仕組みを造るということだろうか、ということでした。そして、思いました。「もしそうであるならば、それは無駄な努力だな」と。それが無駄であることは、最近の歴史が証明していることではないでしょうか。まさに、「小さき者」を生み出さないという理想を唱ったマルクス主義をレーニンが実践して造られた共産主義国家が崩壊したのはつい最近のことです。何も、先生が共産主義国家建設を目指しておられる、と思っている訳ではありません。私が申し上げたいのは、人間の問題を人間を取り巻く状況を変えることによって解決しようとすることは無理であり、イエス様はそのような方法はお取りにならなかったように思う、ということです。くれぐれも誤解なさらないでください。

「解放の神学」という名の神学の一派がありますが、私はこの神学は人間の見方が甘いと思います。人間誰しもが抱えこんでいる悪魔性つまり自己中心性に気付いていないという甘さです。自己中心性の本質は、神様への反逆です。

 マラナ・タ 来たりませ 主よ。


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